pimboke6

introverts (字幕を書き写しました)

前の記事に載せた動画の字幕を書き写しました。
(文字数が多すぎて、同じ記事に載せられなかったのでこちらに)



9歳のとき初めてサマーキャンプに参加しました。
母はスーツケース一杯に本を詰め込んでくれましたが、
私にとってはごく普通のことでした。
私の家では読書が主たるグループ活動だったからです。
非社交的だと思うかも知れませんが、
私たちにとってはそれが一種の交流方法だったんです。
家族がそろっていて、人の温かみを感じながら、
心の中の冒険の国を自由に飛び回ることができたのです。

キャンプではそれと同じことを大がかりにするんだろうと思っていました
10人の女の子が山小屋でおそろいのパジャマを着て、
一緒に読書するのを想像していました。

でもキャンプはむしろアルコール抜きのビヤパーティに近いものでした。
キャンプ初日にリーダーの人が私たちを集めてチアを教えました。
キャンプの精神を再確認するために、これから毎日やるんだと。
こんな感じです。
「R-O-W-D-I-E これがラウディのつづり方、ラウディ、ラウディ、さあラウディに行こう!」

どうしてこんなに騒がしくするのか、訳がわからなかったし、
なんで間違ったスペルを使っているのかもわかりませんでした。

それでもチアを覚えました。
他のみんなと一緒に一生懸命やりました。
早く解放されて本を読みたいと思いながら。
でもスーツケースから本を取りだしていたら、
部屋でいちばんいけてる女の子が来て、
「なんでそう醒めてるわけ?」と言いました。
醒めてる? 確かにR-O-W-D-I-Eとは正反対ですね。

その次に本を取りだしたときには、
リーダーが心配顔でやってきて、
キャンプの精神を繰りかえし、
みんなめいっぱい活動的にやらなければいけないと言いました

それで私は本をスーツケースに戻してベッドの下に押し込み、
キャンプが終わるまで手を付けませんでした。
そのことで何か罪悪感を感じました。
本たちが自分を必要としているように思え、
私を求めているのに見捨ててしまったように感じました。
でも夏の終わりに家に戻るまで、
私は本たちを見捨てて、スーツケースを開けることはありませんでした。

サマーキャンプの話をしましたが、
似たような思い出なら他に50くらいもあります。
静かで内向的なのはよくない、もっと外向的になるよう努力すべきだ、
というメッセージをいつも受け取っていました。
そして心の中で、そんなの間違っている、
内向的なことに悪いことなんてないのにと感じていました。

でもそういう直感をずっと押し殺していて、
こともあろうに金融街の弁護士になりました。
ずっとなりたかった作家ではなく・・・・

自分だって大胆で積極的になれるんだと、
証明したかったのもあると思います。
そして賑やかなパーティによく出かけました。
本当は友達と落ち着いて食事する方が好きだったのに。
そういう自己否定的な選択をほとんど反射的にしていて、
自分では選択していることに気づいてもいませんでした。

これは内向的な人の多くがしていることで、
本人にとって損なことですが、
同時に同僚やコミュニティにとっても損失であり、
大げさに聞こえるかもしれませんが、世界にとっても損失なのです。
なぜならクリエイティヴィティやリーダーシップという面で、
内向的な人に実力を発揮してもらう必要があるからです。

全人口の1/3から1/2は内向的です。
皆さんの知り合いの3人か2人にひとりは内向的だということです。
だから自分は外向的だったとしても、
同僚や配偶者や子どもたちや、
今隣に座っている人は内向的かもしれません。

その人たちはみんな、社会に深く根ざした現実の偏向によって、
不利を被っているのです。
私たちはみんなそれを言い表す言葉も知らない。
幼い時期からそれを内面化しているのです。

その偏向がどんなものか把握するには、
内向的なのがどういうことか理解する必要があります。
これは内気とは違います。
内気とは、社会的に判断されることへの恐れです。
内向的であるというのは、
社会的なものも含め、刺激に対して、どう反応するかということです。
外向的な人は多くの刺激を必要としますが、
内向的な人はもっと静かで落ち着いた環境にいるときに、
生き生きとして能力を発揮できるのです。
いつもそうとは限りませんが、
多くの場合そうだということです。

だからみんながその才能を最大限に発揮できるようにするには、
その人に合ったレベルの刺激の中に身を置く必要があるのです。
しかしここで偏向が問題になります。
もっとも重要な組織である学校や職場が、
外向的な人向けに作られており、
外向的な人は多くの刺激を必要とします。

さらに今私たちが持っている信念体系は、
「新集団思考」と私は読んでいますが、
創造性や生産性はもっぱら何か社交的な場から生まれるとしているのです。

今の教室はどんな風でしょう?
私が子どものころは、机が列に並べられていて、
ほとんどの作業を個人個人でやっていました。
でも今時の教室では、4人から7人ごとに島になって、
子どもたちは多くのことをグループ課題としてやっています。
思考の単独飛行に依存するであろう数学や作文でさえその調子で、
子どもたちは委員会のように振る舞うことを期待されています。
単独で行動することを好む子は、
はぐれ者とか、さらには問題児と見られてしまいます。

教師のほとんどは、
理想的な生徒は内向的ではなく外向的なものだと思っています。
実際には内向的なほうが成績が良く、知識があるのにもかかわらず。
・・・そういう調査結果があるんです。

同じことが職場についても言えます。
多くの人が壁のない開放的なオフィスで仕事をしています。
絶えず雑音や他人の視線にさらされています。
そしてリーダーシップが必要な役割からは、
内向的な人はいつも除外されています。
内向的な人は注意深く、大きなリスクは避けるという長所があるのに。
もっとも近頃では大きなリスクを取るのが好まれているみたいですけど。

ペンシルバニア大学のアダム・グラントが興味深い研究をしています。
内向的なリーダーは外向的なリーダーよりも、
良い結果を生むことが多いというのです。
内向的なリーダーは、
積極的な社員がアイデアを出して活躍できるようにさせる一方、
外向的なリーダーは気づかぬうちに、
何でも自分で仕切ることに夢中になって、
他人のアイデアがなかなか表に出なくしてしまうのです。

実際、歴史上で変革を成し遂げたリーダーには、
内向的な人がたくさんいます。
たとえばエレノア・ルーズベルト、ローザ・パークス、ガンジー。
彼らはみな自分を無口で静かな話し方をする、
むしろ内気な人間だと言っています。
そして彼らは表に立つことを嫌っていたにもかかわらず、
世の注目を浴びることになりました。
そのこと自体が彼らに特別な力を与えています。
人に指図したり注目を浴びるのが好きでやっているのではなく、
自分が正しいと信じることのため、
他に選択肢がなくてやったのだと、みんな気づくからです。

ここで一つ言っておきたいのは、
私は実際、外向的な人たちが好きだということです。
もっとも親しい人の何人かは、私の夫も含め、とても外向的です。
そして私たちはみんな、
極端な内向から極端な外向までの間のどこかにあたります。
内向的・外向的という言葉を広めたカール・ユングでさえ、
純粋に内向的な人や純粋に外向的な人というのはいなくて、
たとえいたとしても精神病院の中だろうと言っています。

内向的と外向的のちょうど中間というような人たちもいて、
両向型と呼ばれています。
彼らは両方の良い面を併せもっているように見えます。
でも多くの人は自分を内向的か外向的かのどちらかだと思っています。

私が言いたいのは、
文化的に、両者をもっとうまくバランスさせる必要があるということです。
陰と陽のように両方必要なのです。
これは特に創造とか生産性といった面で重要になります。
極めて創造的な人々の人生を心理学者が研究したところ、
彼らはアイデアを交換し発展させることに優れている一方、
非常に強い内面的な面を持つことがわかったのです。
孤独が得てして創造性の重要な要素になっているからです。

ダーウィンは長い時間、森の中をひとりで散歩し、
パーティの招待はきっぱり断っていました。

ドクター・スースとして知られるセオドア・ガイゼルは、
あの数々のすばらしい創作を、
カリフォルニア州ラホヤの自宅裏にある孤独な塔のような書斎で生み出しました。
彼は実際、読者である小さな子どもたちに会うのを恐れていました。
陽気なサンタみたいな人を予想している子どもたちを、
無口な自分はがっかりさせてしまうと思ったからです。

最初のアップルコンピュータを作ったウォズニアックアは、
当時働いていたHPで、いつも自室にひとり閉じこもっていました。
子どものころいつも家に閉じこもっているような内向的な性格でなければ、
技術を極めることもなかっただろうと言っています。

これはもちろん、共同作業など一切やめろということではありません。
良い例はスティーヴ・ウォズニアックがスティーヴ・ジョブズと、
アップルコンピュータを始めたことです。
その一方で孤独もまた大切であり、
ある人々にとってそれは呼吸する空気のようなものなのです。

実際、私たちは何世紀にもわたって、
孤独の持つ超越的な力を知っていました。
それを忘れるようになったのはつい最近のことなのです。
世界の主要な宗教を見ると、どの中にも探求者が現れます。
モーゼ、イエス、仏陀、ムハンマド。
探求者はひとりで荒野をさすらい、その中で顕現や啓示を得ます。
そしてそれをみんなのいるコミュニティへと持ち帰るのです。
だから荒野なくして啓示はないのです。

現代心理学の知見に照らすなら、
これは不思議なことでも何でもありません。
グループの中にいると他の人の意見を無意識にまねるようになります。
どんな人を魅力的に感じるかというような、
一見個人的で直感的なことでさえ、
自覚することなく周りの人の見方に合わせるようになるのです。

グループというのは、
その場の支配的ないしはカリスマ的な人の意見に従うものです。
優れた話し手であることと、アイデアが優れていることとの間に、
相関なんて全くないにもかかわらず。

だから・・・
一番良いアイデアを持つ人に従っているのかもしれないし、
そうでないのかもしれません。
でも本当に運任せにしておいて良いのでしょうか?
みんなひとりになって、グループの影響を離れて、
自分のアイデアを出し、
それから集まって、よく管理された環境で話し合うほうが、
ずっと良いのです。

これがすべて本当なら、
なぜ私たちはこんなに間違ったことをしているのでしょう?
なぜ学校や職場をそんな風にしたのでしょう?
なぜ内向的な人が時々ひとりになりたいと思うことに、
罪悪感を持たなければならないのでしょう?

一つの答えは文化の歴史の中にあります。
西洋社会、とくにアメリカにおいては、
つねに「考える人」よりも「行動する人」が好まれてきました。
むしろ「行動する男」ですね。
しかしアメリカでもその初期においては、
歴史家が「品性の文化」と呼ぶ次期があって、
人の内面や倫理的な清廉さが重んじられていました。
当時の自己啓発書を見ると、「品性の修養」のような題名が付いています。
ロールモデルはエイブラハム・リンカーンのような謙虚で高ぶらない人です。
エマーソンはリンカーンについて、
「自分の優位性で人を不快にすることが決してない」と言っています。

しかし20世紀になると、
歴史家が「個性の文化」と呼ぶ新しい時代に入ります。
農業経済から大事業の時代へと変わり、
人々は小さな町から都市へと移り住みました。
子どもの頃からずっと知っている人たちと一緒に働く代わりに、
知らない人の集団の中で自分の能力を示さなければならなくなりました。
そして必然的に、魅力やカリスマ性のような資質が突然重要になったのです。

自己啓発書もこの新しいニーズに合わせて変わり、
『人を動かす』のような題名が付くようになりました。
そこでロールモデルになっているのは、優れたセールスマンです。
それが私たちの住んでいる世界です。
私たちが文化として引き継いでいるものです。

これは別に社会的スキルが重要でないということではありません。
チームワークなんか捨ててしまえと言っているわけでもありません。
賢人を孤独な山へと向かわせたのと同じ宗教が、
私たちに愛や信頼を教えているのです。
科学や経済といった領域で私たちが今直面している問題は、
非常に大きく複雑で、
解決するにはたくさんの人が手を携え協力する必要があります。

私が言っているのは、
内向的な人に自分らしくやれる自由をもう少し与えたなら、
彼らはそういった問題に対し、
独自の解決法を考え出してくれる可能性が高くなるということです。

私のスーツケースの中身をお見せしましょう。
何が入っていると思いますか?

本です。
スーツケースいっぱいの本が入っています。
マーガレット・アトウッドの『キャッツ・アイ』、
ミラン・クンデラの小説、
マイモニデスの『迷える者への導き』。
でも本当は私の本ではありません。
この本を持ってきたのは、
それが祖父の好きだった作家の書いた本だったからです。

私の祖父は男やもめのラビで、
ブルックリンの小さなアパートにひとりで住んでいました。
それは子どもの頃私が世界で一番好きだった場所です。
ひとつには祖父の優しく奥ゆかしい存在がありましたが、
もうひとつは本でいっぱいだったからです。
アパート中のテーブルも椅子も、本来の役割を捨てて、
すべて傾いた本の山の置き場になっていました。

私の家族のみんなと一緒で、
祖父もまた何よりも本を読むのが好きでした。
でも祖父はまた集会も好きでした。
62年間ラビとして毎週与えつづけた説教に、
その愛を感じとることができます。
毎週の読書から素敵なものをえり抜いて、
古風で人間的な思想の繊細な織物を織り出していました。
そしてたくさんの人が祖父の話を聞くために集まりました。

しかし祖父の問題は、儀式上の役割の裏にあったのが、
本当に謙虚で内向的な人柄だということで、
説教をするときにもうまくアイコンタクトを取ることができませんでした。
62年間説教してきた聴衆であるにもかかわらずです。
演題から降りてさえそうで、
誰かが話しかけても会話と突然打ち切ることがよくありました。
相手の時間をあまり長く取るのを恐れていたのです。

でも祖父が94歳でなくなったとき、
警察は近所の通りを通行止めにする必要がありました。
あまりにたくさんの人が追悼に訪れたためです。

だから今では私も自分なりに祖父の模範から学ぼうと努力しています。
最近、内向性についての本を出したのですが、
書くのに7年かかりました。
私にとってその7年は至福の時でした。
ひたすら読書し、書き、考え、調査する。
祖父がひとり書斎で過ごした時間の私のバージョンです。

しかしここに来て突然、私の仕事が大きく変わりました。
人前で内向性について話すという仕事です。
私にはずっと難しく感じられます。
皆さんの前に立つことはとても光栄なんですが、
私の自然なあり方とは全然違うのです。
だからこのような機会に備えるために精一杯努力しました。
去年はあらゆる機会を利用してスピーチの練習をしました。
今年は「危なげにスピーチする都市」だと肝を据えています。

練習はとても役に立っていますが、
さらに力になっているのは、私が持っている感覚、信念、希望です。
内向性や無口や孤独に対する人々の態度が
劇的に変化する一歩手前にあると思います。
本当にそうです。
この展望を共有していただける方に、
三つの行動の呼びかけをしたいと思います。

第一に、絶えずグループ作業するなんてばかなことはやめましょう。
お願いします。
(拍手)
ありがとうございます。

はっきりさせておきたいんですが、
職場では打ち解けたカフェのような、
おしゃべりによる交流を促すべきだと思います。
人々が会って偶然的にアイデアを交換するようなやり方です。
これは内向的な人にも外向的な人にもすばらしいものです。

しかし私たちにはもっと、
職場におけるプライバシーと自由と自立性が必要です。

学校も同じです。
子どもたちに一緒に作業する方法を教えるべきですが、
自分で作業する方法も教える必要があります。
これは外向的な子どもにも重要です。
自分で作業する必要があるのは、
それが深い思考の生まれる場所だからです。

第二に、荒野に行きましょう。
仏陀のように、自分の啓示を見つけましょう。
みんな今すぐ出かけて森の中に小屋を作り、
互いに話すのをやめましょうと言うのではありません。
私が言っているのは、電子機器から離れて自分の頭の中に入る時間を
もっと増やしましょうということです。

第三に、自分のスーツケースの中身をよく見て、
なぜそれを入れたのかを考えてみましょう。

外向的な人はスーツケースに本が詰まっているかもしれませんし、
たくさんのシャンペングラスかスカイダイビングの装備が
入っているかもしれません。
それが何であるにせよ、様々な機会にそれを取りだして、
自分のエネルギーと喜びを他の人にも分け与えてください。

内向的な人はきっと、
自分のスーツケースの中身を守りたいという衝動を感じると思います。
それは構いません。
でも時々はスーツケースを開いて見せてほしいのです。
世界はあなたと、あなたが持っているものを必要としています。

皆さんに最良の旅と静かに話す勇気がもたらされますように。
どうもありがとうございました。
by homeopa | 2014-01-20 11:56 | 人間