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ぷるんぷるん

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成人してから今まで8回引っ越しをしてきて、
そのたびに本棚の中身を片づけたけれど、
それでも8回の引っ越しを生きのびてきた本が何冊かある。
これもその1冊。

「原初生命体としての人間」― 野口三千三著

こんなふうに棚の奥にしぶとく居すわりつづける本は、
たいてい何度も読みかえしている。
でもこの本は30年前に一度読んだきり、
ページを開くことがなかった。

だから内容はほとんど忘れてしまっていたけれど、
ひとつだけ覚えていたことがあった。

人間のからだは薄い膜で包まれた水である、
という考え。
初めて読んだとき、それをどう感じたのかは覚えていない。
ただ気がつけば、以来わたしは、
身体を動かすときにいつもどこかでこれを意識していた。
それぐらい心のどこかに引っかかる本だったのだろう。

で、読みだしたら、
面白くて、面白くて。

この本の中で野口さんは、
生卵はテーブルの上に立たせることができると書いている。
本当かなあ、と思ったので、
やってみた。

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立った。
それも、わりと簡単に。
こうなると俄然、もっと読もうという気になってくる。

卵が立っている状態に関して、
野口さんはこう書いている。

   中身は力んでおらず流動体のままである。それは外からでもよくわかる。悠然として余裕綽々、すっき
   りと大らかである。突っかい棒や引張り綱で無理矢理にしがみついて立っているのではない。ふんばる
   べき脚をもたなくとも、しがみつくべき腕をもたなくとも、たとえ床に接するのはただ一点であっても、当
   然立つべき条件をもっているから、立つべくして立っているのである。でっち上げのごまかしで立ってい
   るのではない。立つことが当たり前であるから、ただずっとそこに立っているのである。素晴らしい。美
   しい。これが地球の上に、床の上に、立つということの基本でなくて何だろう。


でもこの生卵、まわりでちょっと動くと、すぐ倒れるのよね。
それについても、野口さんは書いている。

   立っている生卵は少しゆするとすぐ倒れてしまう。始めのうちはこのことが私に不安と脆弱さを感じさせ
   た。やがてこの感じは変わってきた。倒れる生卵はけしてあわてず騒がず悠々として、大自然の原理の
   ままに任せきってなめらかに倒れるのである。それは瞬間の出来事であるにもかかわらず、ゆっくりたっ
   ぷりとして感じられる動きである。顔色も変えず中身をかためることもなく。止まった後もまた悠々として
   そっとそこに寝るべくして寝ているのである。立派である。やはり美しい。

   立っているものが少しの外力ですぐ倒れるということは、立っていることにとって不安定であり、不安感
   をともなうことは確かである。しかしその反面は、わずかなエネルギーが働くだけで倒れることができる
   能力をもつ、自分の姿勢や位置を変える可能性をもつ、つまり、動きの能力が高いということになるの
   ではないだろうか。

   「不安定を創り出す (バランスを崩す) 能力は動きのエネルギーを創り出す能力である」 と積極的にと
   らえなければならない。

たかがテーブルの上に立った生卵のことで、
ここまで書ける野口さんには、
抜きんでたオタクを見たときに感じるような驚愕と笑いと深い尊敬の念を覚える。
だいいち、生卵に顔色があるとは知らなかった。

でも同時に、読みながら、
生卵になったかのように椅子の上で座りなおしている自分がいる。
これが重力に身をゆだねて座るということか、
などと実験しはじめている自分がいる。

わたしが落ちこんだり、しょぼくれたりするときは、
自分の中からもう何も新しいことが沸いてこないような、
自分はもう変わらないような、
自分のことはもう見えきってしまったような、
そんな気持ちになっていることが多い。

この本を再度手にとったときも、
少しそんな気持ちだったかもしれない。

でもこれを読んでいると、
この自分の小さな身体が、
ものすごい謎と美と可能性をひめた宇宙のようなもので、
それを探索しはじめたら、
退屈などしている暇はないという気がしてくる。

さまざまな動きを試しながら、
その瞬間の身体の感覚に耳を澄ませると、
今まで意識しなかったような感覚が、
次から次へと沸いてきそうな気がする。

自分の身体の感じ方が変化すれば、
当然、まわりの人たちや世界の見え方も変わるだろう。
世界の見え方が変わるということは、
世界が変わるということだ。

野口さんは、動きの実験をたくさん紹介している。
そしてどの動きでも、

    この本に挙げてあるすべての運動を通じて、動きの経過のどの瞬間においても、どのような姿勢にな
    ったときでも、からだのどの部分でも、ゆすろうと思えばゆすることができなければならない。

と言っている。
何しろ身体は液体だから、
ぷるんぷるんと揺すれるのが自然なのだ。
それで最近わたしは、ヨガのポーズを止めるときに、
ほんの少しだけ身体を揺すってみるようになった。
ヨガとしては邪道なのかもしれないけど、なんかいい感じ。
揺するとバランスが定まって、余分な力が抜けて、流れもよくなるような気がする。

野口さんが紹介しているヨガの逆立ちは、
このぷるんぷるんした袋を、
生卵と同じように、
重力の矢印に添わせて立たせることがポイント。
何度かやってみたけれど、まだ成功したことがない。
でもぷるんぷるんがすっと立ったときの、
何の力も入らない澄みきった感覚は想像できる。
その感覚を味わってみたいから、
きっといつかできるようになろう。

    よい在り方、ほんとうの在り方は、練習をするにしたがってだんだんわかってくる、ということが一般の
    原則である。しかし、練習を重ねているうち 「ある日、ある時、突然に……」 ということ、「必ず、いつ
    か……」 ということもまたひとつの原則である。

ま、こんなわけで、
とても楽しめる本であることに気づいた。
最初に読んだときは、
妙に理屈ばかりこねているような印象があったけれど、
それは、身体に対するわたしの感覚があまり目覚めていなかったので、
野口さんの言葉が感覚として受けとめられなかったせいだろう。

    体操とはからだの動きを手がかりにして、人間とは何かを探究する営みである。

人間の探究だから、
呼吸のこと、言葉のこと、排泄のこと、筋肉のこと、
意識のこと、無意識のこと、バランスのこと、感覚のことなど、
いろいろなはなしが出てくる。
面白いところに赤線を引いていたら、
赤線だらけになってしまった。

つまり引用したい文章がたくさんあるということだけれど、
それはこれから折々、引用させてもらうことにして、
とりあえずここは、下の文章を引用して終わろう。


    自分の中にある、自然から分けあたえられた自然の力により、
    自分の中にある、自然から分けあたえられた自然の材料によって、
    自分という自然の中に、自然としての新しい自分を創造する、
    そのようないとなみを体操とよぶ。


    何百年将来のことか知れないが、今までの観念ではおよそ体操とは呼べないような、ある種の奇妙な
    からだの動きが創造される。それがある目的にしたがって適切に処方されると、性格も知能も感情の
    状態も、その人が望ましいと思う方向に変わっていく。じつは、性格も知能も感情も、何を望むかの判
    断や意志さえも、それらの動きすべてが、広い意味での、からだの動きそのものなのである。このよう
    な可能性をもった体操を私は本気で考えている。


    私はこのように、人間の外側から何かをつけくわえたり、破壊して取り去ったりするのではなく、人間
    の一生における可能性のすべての種・芽は、「現在の自分の中に存在する」 のだと考えて、今自分
    自身の中にもっていながら、自分をふくめて誰も気づいていない無限の変化発展の可能性を、自分
    自身のからだの動きを手がかりとして、それを発見して育て、また、それがどんなものであるかさえ
    認識の網ですくうことのできないものまでも、そのままで発達させることができるものと考えるのであ
    る。


野口さんは体操の先生なのだ。








※上とは関係ないかもしれないけど、関係があるような気もする、非暴力闘争の方法 by ジーン・シャープ
  けっこう感動した。
  日本にも必要になるかもしれない。


昨日会った友人が、「いとこ同志」
という古いドラマのはなしをしてくれた。
小林薫と田中裕子主演で、1930年代ころを舞台にした、
向田邦子原作・久世光彦演出のドラマだそうだ。
タイトルを聞きまちがえて 「男同士」 で検索したら、
男性と男性のいろいろ愉快な夜のもつれに関する情報がどっと出てきて、笑った。
それはともかく、このドラマを見ていると今の日本の状況とあまりにそっくりでぞっとしたと、友人が言っていた。
by homeopa | 2013-12-25 09:44 |