pimboke6

health check

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今朝もさわやかな川原の散歩。
しかし草の勢いはすごい!
一日で10センチぐらい伸びるんじゃないか?
ほとんどの場所でわたしの背丈より高くなっているので、
川原を歩いてももう川が見えない。

かぼちゃは放置してどんなふうに育つのか見てみようなんて思っていたけど、
放置したら草に囲まれて日陰の身になってしまう。
それでつい、まわりの草を倒したり、手で切ったり、抜いたり。

こういう草の勢いに囲まれていると、
人間をやってることが笑えてくる。
放射能とか、農薬とか、戦争とか、遺伝子組み換え食品とか、予防接種とか、薬とか、
その他もろもろの状況を考えると、
たぶんそう遠くない未来に人間はほろびるんだろうなと思う。

でもそんな状況でもおかまいなしに、草はどんどん伸びて、どんどん地上をおおって、
枯れては種を落とし、また生えてどんどん伸びて、
土や水を浄化し、土や水を育て、虫や鳥をやしない・・・・・

きっとこの緑の地球はそうやって草とともにだいぶ先まで生きのびていくんだろう。
人間が滅んだあとも延々と。
少し悔しいけど、でもうれしい。



はなし変わって、
小さすぎる図書館で思いがけず目に入ってきた別の本。
ツボにはまって、電車の中で何度もふきだした。
友だちに見せたら、ふーんて感じだったから、
たぶん 「わたしの」 レセプターにのみはまるタイプの笑いなのだろう。
でも引用しちゃう。

   ※   ※   ※   ※   ※   ※

健康診断の論理と心理


 最近の医学の検査技術の進歩には目をみはるものがある。磁気、X線を利用した技術については言うまでもないが、ちょっと腹に穴をあけて管を差しこんで覗くだけで、内蔵の様子がわかるまでになっている。

 それにともなって、誤診を最小限におさえる努力がなされるようになってきた。一目で風邪だとわかっても、直感に頼らず、考えられるすべての検査をしてからでないと診断を下さなくなった。これはありがたいことである。正しい診断を下してもらうことは、治療してもらうことよりもずっと重要なのである。

 たとえ治療法がないような病気と診断された場合であっても、それで検査は終わったと安心してはいけない。さらに精密な検査を受けてより詳細に診断してもらうべきである。自動車などは修理の方法がないような場合には検査もしないが、人間の場合はそうではない。ここに人間の尊厳がある。たとえ検査のために死期を早めることになっても、正確な診断のためには人間として喜んで耐えなくてはならない。

 ありがたいことに、現代では検査だけでなく、治療技術も発達し、治せない病気以外はすべて治せるまでになっている。だが、いくら進歩したといっても、治療を過信することはできない。いちど手遅れになったら、もう何をやっても手遅れであるのは、昔も今も同じである。

 しかし早期に発見することができたなら、ほとんどの場合、完全に治すことができる。とくにどんな精密検査を受けても異常が見つからないうちであれば、確実に治るまでになっている。

 ただ問題は、本当に異常なしなのかということである。職場の定期検診などで異常が発見されなかったとしても、安心するわけにはいかない。実際、何十年も定期検診を受け続けた人でもいつかは必ず死んでしまうのだ。定期検診で異常が見つかってから治療を受けるのでは手遅れであり、死ぬ前の身辺整理の時間が稼げるだけである。身辺整理にしても、本当は異常がみつかる前に始めておかないと遅い。墓の手配から斎場の予約まで早めにすませておきたいものである。
 
 だから定期検診で病気が発見されるまで待つという悠長な態度でなく、早め早めに異常を見つけて手をうたなくてはならない。極端に言えば、ちょっとくしゃみをしただけで手術を受けるくらいの心構えが必要である。
 
 だいたい、定期検診だけですませようというケチな根性から改めなくてはならない。よく、一年にわずか一回や二回の検査を受けたくらいで、「自分には一点のやましさもない」といわんばかりのスガスガしい顔つきをしている人がいるが、そのいやらしさはだれもが感じるところである。感じのいい人であるためにも、検査の結果を疑いつづけなくてはならない。
 
 とにかく定期検診の日まで座して待つのではなく、定期検診以外にも自分から検査を願い出るような積極性がほしいものである。もちろん検査で異常が見つからなかったからといって安心できないのは、定期検診の場合と同じであって、再検査が必要である。何回も同じ検査をするのに難色を示すような病院だったら、病院をかえてでも検査してもらうべきだる。こうして検査を受け続ければ異常が発見されるときが必ずやってくる。この時になってはじめて安心することができる。
 
       (中略)
       
・・・・・ただ、論理的に納得できても心理的に抵抗を覚える人もいることが予想される。次のような反論がその例である。

 検査技術の発達によって喜ばしい時代は到来したといっても、それは医療関係者にとって喜ばしいだけではないのか。いつ病気が発見されてもおかしくないような虚弱体質の人間には、検査万能の時代は受難の時代である。このような人間にとっては、検査ほど恐ろしいものはない。検査の結果異常が発見されるのに較べたら病気になる方がよっぽどましである。それはちょうど、犯罪を犯すよりも犯罪が露見するほうが恐ろしいのと同じである。あるいは、無能力であることよりもそれを知られるほうが恐ろしいのと同じである。逆の場合で言えば、善行を施すよりも表彰されるほうがうれしいのと同じである。
 
 そもそも検査を受けるのは、深刻な病気が疑われるからである。この疑念を確信に変えて何がうれしいのだろうか。検査を受けても金がもうかるわけでもなく、ハワイ旅行が当たるわけでもなく、最高の結果でも「異常なし」で、あとはそれより悪い結果しかない、というのでは、「よくてもともと、あとは損をするだけ」という賭けと同じで、普通の人ならだれもチャレンジする気がおきないのは当然であろう。検査の結果、景品が当たるといった楽しみの部分でもないと、楽しそうにしているのは医療関係者だけという現状は変わらない。せめて検査を受けるたびにスタンプを押してもらい、それがたまったら一回タダで検査が受けられる、といった工夫が欲しいところである。
 
 このような意見をきいて何よりも疑問に思うのは、そんなに異常が発見されるのが怖いのなら、どうしてわたしのように、定期検診をうけるときは、二週間前から節制し、体調を整えたうえで検査にのぞむ、といった程度の努力ができないのか、ということである。できれば事前に検査を受けて異常がないことを確認してから健康診断にのぞみたいものである。
 
 何事にも疑いをはさむ人がいるものだが、検査の毎日で一生を過ごすことに疑問を感じる人は、身体以外にも、他人に発見されてこまるようなやましさをどこかにもっているのではないか、とわたしは疑っている。
 
 検査が健康のために必要だという当たり前のことを納得したうえで検査を嫌う人は、健康になることを恐れているといってもいい人たちなのだ。それなら病気を歓迎しているのかというとそうでもない。病気も人一倍恐れているのだ。では健康も病気もない状態、すなわち死を歓迎しているかというと、これもまた人一倍恐れているのだ。これらをどれも恐れる人に残されるのは、未決定の状態だけである。どっちつかずの状態の中で、不安と疑惑を抱きながら生きていくしか道はない。
 
 なお、わたし自身は未決定の状態が好きであることを付言しておく。
 
                                      ---- 「われ笑う、ゆえにわれあり」土屋賢二著(文春文庫)
        
        
     ※  ※  ※  ※  ※  ※  


ああ疲れた。
こんなに長く引用するとは思わなかった。
長く引用しても実益はほとんどない文章なのに。






Break It Yourself by Andrew Bird ♪





※ホメオパシー講座やります。
  テーマは  「予防接種と子供のかかる病気」
  http://homeopa.info/lecture3.html
by homeopa | 2013-05-28 12:24 | 身体のこと