pimboke6

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japan

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3.11のあと、
日本という国について考えることが多くなりました。
考えるったって、三歩あるくと忘れるこの鶏脳だから、たかが知れてるんだけど。

日本の偉いおじさんたちの無恥、無知、無感覚、無頓着、無謀、無粋、無礼、無思慮、無能ぶりに
唖然としたり、恥じいったり、
それに劣らず日本や世界のことに無知無関心だった自分にも恥じいったりした反面、
せこくて、神経質で、世間知らずで、おめでたくて、
世界でもまれに見る繊細な美的感覚をもち、
やわな外見に似合わぬ強さを隠しもった日本人は、やっぱり好きだなと思ったり、
世界のいろいろな場所に住んでみたいと思いつつも、
最後は日本の山でこの水と木々と湿気に包まれてのたれ死にたいと思ったりしました。
そのために日本の山や水や空気は健やかであってほしいと思い、
そのためには世界の山や海や空気も健やかであってほしいと思いました。
これを愛国心というのかどうか。

そんななか、愛国心について、
このところ読んでいる内田さんの本に、そうだよねと思うくだりがあったので、
またメモっときます。
以下はすべて本からの引用です。

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  国家と国民の関係は 「ねじれ」 ていて当たり前なのである。国家や国旗に対しては、「愛着と反感」
を、「誇りと恥」 を同時に感じてしまうというのが、近代国家の国民の自然な実感なのである。それはベ
トナム戦争を経験したアメリカ人、スターリン主義を経験したロシア人、ヴィシー政権を経験したフランス
人、ナチズムを経験したドイツ人、文化大革命を経験した中国人---- どの国民でもみな同じである。国
家の名においておかされた愚行と蛮行の数々。それと同時に国家の名において果たされた偉業の数々。
その両方を同時にみつめようとしたら、私たちの気持ちは 「ねじくれて」 しまって当然なのである。それ
をどちらかに片づけろというのは、言う方が無理である。

                                     ---- 内田樹著 「ためらいの倫理学」 より


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  小学校六年生の通知表に 「国」 や 「日本」 を愛する気持ちがあるかどうかを 「査定」 する評価項目
を取り入れた小学校がある。
  2002年度から新学習指導要領が始まり、「国を愛する心情」 の育成が社会科の学年目標に掲げら
れたことに対応してのことである。
  評価項目の文言は 「我が国の歴史や伝統を大切にし、国を愛する心情をもつとともに、平和を願う世
界の中の日本人としての自覚をもとうとする」。この評価項目についてABCの三段階評価を教員が行うの
である。
  私は人も知る 「愛国者」 であるが、この指導要領には開いた口が塞がらなかった。


  だいたい 「愛国心」 とは何のことか。
  個人的な定義によるならば、「愛国心」 とは 「国益の最大化を優先的に配慮する心的活動」 である。
それ以外にもっと 「正しい」 定義があるというならお教えいただきたい。
  「国益」 とは、端的にこの国民国家の全構成員の生命・身体・財産の効果的な保護と、人間的自由
の保全のことである。
  たぶんここまではどなたも文句があるまい。
  しかし、ここからの根本的な問題は、にもかかわらず、「国益」 とは何かについての国民的合意が存
在しない、ということである。
  例えば、小沢一郎が 「国益」 と思っているものと、私が 「国益」 と考えているものとは、まるで違う。


  こういうのは個人によって違って当たり前なのである。どちらが 「正しい」 というようなことは軽々しく
口にすべきではないのである。
  だから国益を守ろうという 「総論」 については全員一致しても、では具体的にどういう政治的オプショ
ンを採択するのが国益を 「最大化」 するのかという 「各論」 に入ったとたん、みんな考えが違ってしまう。
  私は 「それでよい」 と思っている。
  それぞれの国益についての意見を述べ合い、自説に与する多数派を形成するために必死に言論活
動を展開するのが民主主義であると私は思っている。


  私は子どものころから、私なりに国を愛していた。この国を何とかもっと住みやすい国にしたいものだ
と毎日ない智恵を絞っていた。その私に向かってもし六年生のクラス担任が 「ウチダくんの家は祝日に
国旗を掲揚しない」 とか 「『君が代』 を大きな声で歌わない」 とか 「伝統文化を軽視し、フランス人の本
などを耽読している」 というような理由で、「日本人としての自覚が足りない」 とC査定を下したなら、私は
口惜しくて血の涙を流したであろう。
  逆にもし、小学生が右翼の街宣車で校庭に乗りつけ、戦闘服で国旗に敬礼して、「海ゆかば」 を絶唱
し、唱和しない同級生を殴り飛ばしたら、教師たちは彼の 「日本人としての自覚」 の評点をどう査定する
つもりなのであろう (A評価を拒むどのような理由を彼らは思いつけるのだろう?)。
  愚かな話だ。
  「日本人としての自覚」 というようなものに外形的基準は存在しない。
  それは一人ひとりの日本人のマインドセットであり、完全に個人の自由に属する。

                                 ---- 内田樹著 「子どもは判ってくれない」 より

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Delicate by Damien Rice ♪
by homeopa | 2011-12-31 09:47 | 風景

old men & women

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                 ROKKOR-PF 1.7 55mm Uxi super 200




おとといのダーツの旅の2011年村人グランプリ、おもしろかった。
田舎のじいちゃん、ばあちゃんを見ていると、老いるのも悪くないなと思う。
大好きだな、あの番組。
でも、笑ってこらえた・・・・あばら骨の痛み。

年をとることで、いいなと思うのは、
純粋さを求めなくなることかもしれない。
わたしにもいちおう若いときがあったんだけど、
そのころは、すごく幸せな楽しい時間に、いつも切なさが伴っていた。
この楽しい時間ももうすぐ終わってしまう、こんな幸せな時間は長く続かないかもしれない、
と思って。
だから、こんな切なさを感じずに純粋に喜びだけを満喫できたらどんなにいいだろうといつも思っていた。

でも長く生きてくると、それが当たり前になる。
いいことのあとには必ず悪いことが起こり、悪いことのあとには必ずいいことが起こる。
いいことには必ず悪いことがくっついていて、悪いことにはかならずいいことがくっついている。
それが身にしみてわかってきたので、
あんまり切なくならなくなってきた。
当たり前だから。
それでかえって、はかない喜びにどっぷりひたれるようになった気がする。
どうせはかないのがわかっちゃっているし、
終わるのを恐れたり惜しんだりするのにも疲れたし。
それならなんで写真なんか撮ってはかない喜びを保存しようとするんだと問う人もいるかもしれないが、
いや、そんな私事に興味を抱く人はいないと思うが、
いちおう言い訳すると、そこはそれ、純粋な人間なんていないってことで。

この前、お客さんに68歳ぐらいに見られてかなり衝撃を受けたんだけど、
あれもいい面と、悪い面がある。
悪い面にはあえて触れないけど、
いい面としては、しわの寄った年寄り顔で、口数少なく、うん、うん、と話を聞いていれば、
なんでもわかっている深い智恵の持ち主と思われて尊敬される、という可能性。
ただのしなびてボケたばあさんだと思われる可能性もあるけど、
それもほら、混沌とした人生のおもしろさってことで、あえて結論を出さずに、
いいことだけ考えてごまかしておけば、
少しのあいだ幸せでいられる。

old man by neil young ♪



国会議員に年賀状を出そう
by homeopa | 2011-12-30 08:22 | 風景

seeds

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                 ROKKOR-PF 1.7 55mm UXi super 200




最近知った内田樹さんがおもしろくて、
記憶も認知もあやしくなった頭でがんばって読んでいます。

「何かが 『分かった』 と誤認することによってもたらされる災禍は、
 何かが 『分からない』 と正直に申告することによってもたらされる災禍より
 有害である (ことが多い) 」

という、あとがきの言葉でもわかるように、
簡単に一面的に断定しないところが、
わたしがこの人の本を読んでいて快適であり刺激をうけるところです。

その内田さんの本から、また長い引用。

-----------------------

  「三人寄れば文殊の知恵」 という言葉がある。
  これは意見の違う人間が三人集まると、もっとよい意見になるという意味ではない (ふつう、
意見の違う人間が三人集まると、さらに収拾がつかなくなる)。
  そうではなくて、「私の主張は間違っている可能性がある」 という前提に立つ人間が三人集
まると、間違った決定を下す確率が劇的に減少するということを、このことわざは意味している
のである (たぶん)。
  経験のある方はご存じだろうが、「私の主張は間違っている可能性がある」 と思っている人
間たちが集まると、その議論はたいへん迅速に進行し、かつ内容は濃密で深厚なるものとなる。
  どうしてそういうことになるのか。
  そういう場合の議論においては、それぞれの論者たちは自説の 「正しさ」 よりもむしろ、「自
説の危うさ」 の定量を優先させるからである。「私たちはどのようなデータを見落としているか?」
「私たちは状況判断にどれほど主観的願望を交えているか?」 という点検がそのような議論に
おける主な議題となる。
  「私は正しい、おまえは間違っている」 という議論と、「私たちはみんな間違っているのだが、
それぞれの間違い方には程度差があるのでいちばん間違いの少なそうな仮説に 『乗ろう』 」
という議論では、使う 「頭の部位」 が違う。
  「私は正しい、おまえは間違っている」 という議論の立て方をする人間は、自分の立論の整
合性と他人の立論の破綻を過大評価する傾向を持つ。一方、「未来予測が外れる蓋然性を最
小化する」 ための議論では、全員が自分たちそれぞれの主張はどこに 「穴」 があるのかを徹
底的に吟味する。それは 「私はどんなふうに賢いか」 ではなく、「私はどんなふうに愚かである
か」 に焦点化した思考である。
  「文殊の知恵」 とはそのことであると私は思う。

                              ---- 内田樹著 「子どもは判ってくれない」


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うん、今度レディ・ガガと口論するときは、
「自説の危うさ」 の定量を優先させ、
自分の立論の整合性とガガの立論の破綻を過大評価することなしに、
「私はどんなふうに愚かであるか」 に焦点化した思考をしよう!

でも・・・・かねてから私とガガの口論は、
私 (母) がどんなふうに愚かであるかに焦点が合っていたような気がする・・・・




Phoenix | 1901 | A Take Away Show ♪
by homeopa | 2011-12-27 17:52 | 植物

gorgeous!

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  図書館で本を7冊ばかり借りてきた。
  レディ・ガガがうちにいないと、読書欲が急上昇する。
  ガガがいなくなったとたん、AさんだったわたしがBさんに変わる。
  面白いもんだ。

  読書欲が高まっているときは、なぜかお金を使わない。
  いい感じの年末だなあ。

  それにしても、なぜみんな年末になるとあんなに買うんだろう。
  すぐに地震でも来るみたいに、何かに突き動かされるように、この世の終わりみたいに。

  わたしが子供のころは、正月の三が日、へたすると五日ぐらいまで、
  お店がみんな閉まっていた。
  だからそのための買いだめが必要だった。
  お節も、もともとはそのためにつくった保存食だったんだろうけど、
  状況が変わっても、人間の習慣や癖はななかなか変わらないらしい。
  
  買おうにもお金がないのは、ほんとに気が楽だこと。

  いや、でも、明日にはほんとに地震が来るかもしれない。
  そしたら、買いだめした人たちは、ああ、よかったね、ということになる。
  そういう人たちが、震災後のがれきの中で伊勢エビや伊達巻きや生ハムなんかを食っているのを、
  わたしは指をくわえて見ていることになるんだ。
  ああ、なんて不幸なわたしだろう。
  


  ★世界最大規模のケータイ疫学調査の調査方法に致命的欠陥
by homeopa | 2011-12-26 10:02 | 風景

oh my rib!

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  あなたはいつもそこにいてくれたのに、
  私は気づかなかった。
  私が笑うときも、咳をするときも、鼻水をすするときも、くしゃみをするときも、
  あなたはさり気なく支えてくれていたのに。

  青信号の点滅にまどわされて、先を急いだ愚かな私。
  信号無視で左からやってきたシティーバイクが最高速度で私の後部車輪をひっかけたとき、
  私のハンドルがあなたを強打して、
  初めてあなたの存在の大きさに気づいた。

  ああ、私の左のあばら骨。
  今はあなたの愛がよくわかる。
  笑うとき、くしゃみをするとき、鼻をかむとき、
  咳をするとき、左手でものを拾うとき、一日の終わりにベッドに横たわるとき、
  あなたの切なさが痛みとなって私を突きさす。
  ひび割れたあなたの心が悲鳴を上げる。

  でももういいの、何も言わないで。
  今、私にはあなたしかいない。
  あなたの痛みが癒えたら、有り金はたいて山里の湯につかりにいこう。
  あなたとふたりだけで。


  (正直、じっとしてればなんてことないけど)



  

better together by jack jhonson ♪
by homeopa | 2011-12-25 08:43 | 風景

lady gaga in flight in a fright と 映画「3.11 日常」

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  昨日の朝3時半に起きて、
  オーストラリアに冬休みを過ごしにいく娘を空港まで見送りにいってきた。
  娘にとっては初めてのひとりフライトで、キャセイパシフィックの香港乗りつぎ。
  チェックインの長蛇の列に並んでいるあいだに、
  娘が 「ああ、どうしよう、大丈夫かなあ、怖いなあ、ああ、怖い、どうしよう」 と言いはじめた。
  化粧した顔がレディ・ガガみたいに見えるやつだが、けっこうかわいいところもある。
  Aconite を一粒、口に入れてやったら、
  「・・・・なんとかなるような気がしてきた」 とのこと。
  わりと単純。
  (それとも、わたしをからかったのか?)

  香港での乗りつぎはうまく行ったらしく、
  今朝、無事に着いたとおばあちゃんからメールが入っていた。よかった、よかった。

  てことで、わたしはこれから、レディ・ガガのいない静かで質素な年末と正月を楽しもう。
  年末はほぼ最後まで仕事だけど、
  年始はひたすら読んで、ひたすら歩き、夜はDVD三昧!
  
  

  ★東京都と東電の子会社が被災地がれきビジネスで焼け太り
    あんまりでしょう、石原じいさん!
    がれきの受け入れに真っ先に手を上げたのは、
    東電の子会社を儲けさせるためだったの?
    「原発やめて自然エネルギーに変えるなんて、できっこないんだ」
    と以前のたもうていたのは、
    そういう癒着があったからなの?
    いやな人だなあ。


  ★コメントで教えてもらった映画 「3.11 日常」 の監督インタビュー
    (12月24~30日 レイトショー21:30から )

  ★上の映画に出てくる中川敬さんが、石原じいさんのことを歌ってる!♪
by homeopa | 2011-12-23 14:07 | 風景

haha

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  「私と同じぐらいのお年ですか?」
  と68歳のクライアントさんにきかれた。
  母ではなく、わたしの年齢について。
  とっさに言葉が出なくて苦笑いしていたら、
  「もっとお姉さんかしら?」
  と重ねてきかれた。
  それでどれくらいのショックを受けたのか、まだ自覚できていない。


  st. vincent - jesus saves, i spend (take away show part 2) ♪
by homeopa | 2011-12-22 21:56 | 人間

snowflakes

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  ともだちのブログで知った本が面白いので、
  ひっかかった部分をまた少し引用。

  ・才能はアウトプットで測るのではない。その活動から引き出した 「快楽の総量」 で測るのである。
   快楽の総量を測るというのはむずかしい作業だ。

  ・言葉は似ているけれど、「快楽」 は本質的に個人的なものであり、「欲望」 は本質的に模倣的な
   ものである。この二つはまったく違う。
     私たちは他人の欲望を模倣する。私たちが何かを欲しがるとき、ほとんどの場合、その理由は
   「それを他人が欲しがっているから」 である。他人の欲望に私たちの欲望は感染するのである。
     しかし、模倣欲望には終わりがない。
     私たちが 「持っていないもの」 はそれこそ無数にあり、その 「どれ」 が欲望の対象として前景化
   するかは、そのつど私が 「ライバル」 とみなす人間が何を欲望しているかによって決定される。
   ・・・・だから、原理的に、私たちの欲望は永遠に不充足のままである。
     欲望は模倣的であるからそもそもその起源は私のうちにはない。だから、それが充足されたから
   といって、「私の内部」 に充足感がゆきわたるということも起こらない。模倣欲望の充足とは、欲望
   の対象が前景から後景に退き、意識されなくなるというだけのことである。私たちが欲望するものは
   すべて、「それはもう欲しくなくなった」 と言うだけのために欲望されているのである。
     快楽はベクトルがそれとは逆を向いている。快楽の対象がたえず意識に前景化されていること、
   それ自体が快楽の目的である。快楽は何かの結果ではない。プロセスである。
     快楽とは 「快楽の追求」 それ自体が十全な愉悦をもたらすようなもののことである。快楽を求
   める活動それ自体が快楽の完全な成就であるような活動が 「自分にとって」 何であるかを言える
   人間を、私たちは 「快楽の尺度」 を持っている人間と呼ぶ。快楽と欲望の充足を取り違えている
   人間にはおそらく快楽は訪れない。
                               ---- 子どもは判ってくれない (内田樹著 文春文庫)

   

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  つまり、何かに秀でていて、
  それでたくさん稼いだり、偉業を成しとげたり、美人妻をめとったり、有名になったからって、
  才能があるとは言わない (この著者は)、ということね。
  その何かをしているときに、結果がどうあれ、他人様の欲望とは無縁の快楽を覚えることができて、
  それが多量で、しかもいつもそこにあることが、才能があるということ。

  じゃ、才能があるという人というのは、たとえばサカナクンみたいな人ですかね。
  たとえテレビに出ていなくたって、大学で教えていなくたって、収入がなくたって、
  魚と一緒にいれば、きっといつもあのハイテンション。
  あれは人を喜ばせるためにつくっているのではなくて、
  たぶん身体からビールの泡みたいにあふれてきちゃうのだろう。

  だったら、わたしも才能があるんだ。
  ヘボ写真でも撮ってるプロセスでは快感にあえいでいるもん!
  いや、快楽と快感はまたちがうのかな?


  ※チェルノブイリ救援・中部の河田昌東氏インタビュー(2011/5/7)




  
by homeopa | 2011-12-20 20:08 | 日々の暮らし

    sazanka

      色はきれいだけど、ピントはどこよ?
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      手と足にカビが生えたあと、      
      自分のことをダメなやつだと思うことがあまりなくなった。
      同時に、自分をスゴイやつかもしれないと思うこともなくなった。

      他人目線で自分を見て、
      あんたは、そこはできてるけど、そこはできてない、
      そこは素晴らしいが、そこはろくでもない、でもそんなにイヤなやつじゃないかも、
      ぐらいの思い方ができるようになった。

      自分をスゴイと思うことと、ダメだと思うことは、もともと同じことなんだと、
      こうなってみてよくわかった。
      こうなると、鏡を見て感動したり落胆することが減って、ちょっとつまらないけど、
      まあ、楽にはなったわな。



      ※福島第一原発事故-地下水の流入止まらず、処理水の海洋放出を検討
      (事故は収束したとか、ドジョウが言ってたけど)



      Old Banners|Safe Travels|A Take Away Show ♪
      (赤ちゃんが、かわいい!)
by homeopa | 2011-12-19 08:32 | 季節の花

   film makuno wasureta

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      ※放射性セシウム:落ち葉から完全除去 植物石と結合--千葉大研究者ら開発



      Beirut - The Penalty - A Take Away Show ♪
by homeopa | 2011-12-17 22:18 | 風景