pimboke6

カテゴリ:本( 13 )

the power of stories

b0170947_188941.jpg

いい本を読んだ。

ラオス 山の村に図書館ができた (福音館の単行本)

著者の安井さんは、おはなしが大好きな人。
おはなしに聴き入る子どもたちのキラキラした目に魅了されて、
アジアの難民キャンプで図書館づくりにたずさわったり、
ラオスのモン族の民話を採集したり、
そういう仕事をなさってきた。

その安井さんが、何度も訪れて顔なじみになったモン族のゲオバトゥ村に、
子ども図書館をつくることになった。
どうしてそういうことになったのか、そのいきさつだけでもなかなか感動的なんだけど、
ここでは触れないので、興味がある方は本を読んでください。
じわっと心が温まる本です。
収録写真の子どもたちの顔がまたたまらない。

b0170947_20534943.jpg


図書館づくりは2005年11月に始まり、
2007年2月に完成する。

b0170947_20505496.jpg


安井さんはそのほとんどの期間を村に泊まりこんで、村人とともに生活しながら、
図書館の建設を指揮するかたわら、図書館のおもしろさを村人たちに伝えはじめる。
モン族には文字がない。
子どもは本など読んだこともないし、
ちょっと物知りの大人でさえ、図書館がどんなものなのかを知らない。

でも安井さんが建設中の図書館の横にござを広げ、絵本を広げたとたん、
子どもたちが寄ってきてページをめくりはじめる。
安井さんが本を読んできかせれば、
ますます多くの子どもが寄ってきてそれに聴き入る。

  「子どもたちが食い入るようにお話を聞く姿を見ていると、お話は、子どもたちに不可欠なものなのだと
  思わずにはいられない。身体に必要な水をごくごく飲むように・・・・子どもたちは自分の中にお話をどん
  どん取りこんでいきたいのだ。
   子どもたちはいつも新しい世界に出会いたいのだ、と私は思う。行ったことのない場所に行き、会った
  ことのない人に出会い、やったことのないことをやってみたい。ただ現実の子どもたちの世界は限られて
  いる。だからこそ、絵本やお話を通して、新しい世界と出会うことを求めるのだろう」

b0170947_20542817.jpg


子どもたちは水を飲むようにお話を吸収し、記憶に刻み、
日常の生活のなかで折々、お話の一節を引用したりする。

  「・・・・山で過ごす時間は、けっして楽しいことばかりではない。重い荷を背負っていたり、長い山道を
  歩いていたり、炎天下で作業していたり・・・・たいがい子どもは一人で、任された作業と対峙している。
  そんな時にはなおさら、心に蓄えられた物語りが力や勇気となり、彼らを励まし、そこで過ごす時間を
  豊かなものにしてくれるにちがいない」

b0170947_2055070.jpg


しかし本を通して新しい世界に出会うことで、
新しい葛藤も生まれる。

  「村の中に図書館をつくるということは、これまでとは違う価値観を外からもちこむことでもある。民族の
  伝統や文化の継承に役立つ図書館にしたいと思ってはいるが、別の側面から見たら、これまでの価値
  観を壊すことに一役買っているともいえる」

男性中心の社会で忍耐や服従を強いられてきた女性たちは、
新しい生き方に目覚めるとともに、現実とのギャップに悩むことになる。

無邪気な子どもの時代を過ぎた思春期の少年少女もだ。
ゲオバトゥ村の子供たちの多くは、
中学・高校に進学するとき、6キロほど離れたノンへートの町に出ていく。

ある少年はこう語っている。

  「でもさあ、こんなにツォーツォーニエ (貧しい) だからさあ。もう勉強してもしょうがないんじゃないかな
  って思えてくるんだ。一年学校に行くと、なんだかんだで両親に200~300万キープ (約2万5000円~
  4万円) の負担だろう。そんな負担を負わせて、結局何の役にも立たないんだったら、今 (学校を) や
  めてしまったほうがいいんじゃないかって。ぼく毎日、ニュアシア (気が重い) なんだ」

  「本当はね、ぼくだってもっと広い世界を見てみたい。でも親戚のおじさんは、「おまえは村で畑仕事を
  やればいいんだ」 って言うし・・・・」

  「いっそ学校やめて、タハーン (軍) に入ったほうがいいんじゃないかな。そうすればお金もかからない
  し、一人立ちできるし・・・・なんといっても、うちはツォーツォーニエなんだよ」

人間には未知の世界を知りたいという欲求がある。
でも自分が今いる世界の外にどんな世界があるのかを知らなければ、
その欲求は具体的なものにはならない。
知らぬがホトケで、知らなければ欲しようもない。
そして知ったとたん、今いる世界が色あせて見えたりする。

以前にヒマラヤのラダックという村のはなしを書いたけれど、
世界が広がると、どうしても今世界を支配している西欧世界の文化に影響されることになる。
それは幸せをもたらすこともあれば、不幸をもたらすこともある。

本を読むということは、
ある意味、こういうきわどいところを右往左往することでもある。

人間というのは、つくづく厄介な生き物だと思う。

でも安井さんは、
「山の村にあっても、広い世界への扉を開き、そして、自分たちの根っこともつながっていくことができる
図書館。過去の記憶を力とし、子どもたちの未来の夢につながる図書館。それを目ざして・・・」
今もゲオバトゥ村の図書館を支えている。



図書館は今日も大にぎわい。
b0170947_2116535.jpg



安井さんと大の仲良しになったツィばあちゃんは、
図書館ができる前に亡くなった。
b0170947_21173339.jpg



安井さんの描いた下絵をもとにこんな刺繍を残して。
ここには、広い世界を知ることなく一生を過ごした女性の豊かな喜びがあふれている。
b0170947_2121042.jpg



人間というのは、つくづく不思議な生き物だと思う。









きくみみダイヤル --- おはなし聴きます
by homeopa | 2015-07-13 18:08 |

わからないからおもしろい

b0170947_924938.jpg

本を読むといろいろなことを知って、
この世界のことがよくわかるようになる、
と思っている人は多いと思うけど、
それはちがうと思う。

本を読めば読むほど知らないことがふえて、
世界がますますわからなくなる。
世界の広さと、深さと、高さと、多様さと、わけのわからないでたらめさと醜さと美しさに、ますます圧倒される。

だからおもしろい。
だからわたしは本を読む。

そういう点で読書は旅に似ている。


と、つねづね思っていたところ、ふらりと入った本屋さんでこんな本を見つけてぶっとんだ。
旅するように読んだ本: 墨瓦鑞泥加書誌 (ちくま文庫)
これは下の本の文庫版。
はるか南の海のかなたに愉快な本の大陸がある
読みたい本がますますたくさんになって、
なかなか死ねないぞ。



   〈エクゾティスム〉 とは (中略)、永久に理解不可能なものがあるということを鋭く直接に知覚することなの
   である。(中略) さまざまな風習や人種、民族や他者を同化できると自惚れぬようにしよう。逆にそうする
   ことは絶対に不可能だということを楽しもう。
                          ---- ヴィクトル・セガレン 『〈エクゾティスム〉に関する試論/覉旅』






本といえば、しおり。
ガガの成人式のあとで振り袖をクリーニングに出したとき、
それを包んでいた 「たとう紙」 が不要になって、
でもあまりに丈夫で気持ちのいい和紙なので、
何かに利用できないかと考えて、
そうだ、しおりにしよう、と思いついた。

b0170947_1535322.jpg


ここに載せるほどのもんでもないけど、
わたしひとりで使いきるには多すぎるので、
もし本をたくさん読む方で、しおりに不自由している方がいらっしゃったら、
お送りします。
ほんと、そこまでするほどのものではないんだけど。








この前、下半身のちからについて書いたけど、
この下半身の安定ぶりはどうだ!
African School Kids Dance Moves ♪







※ホメオパシー入門講座やります。6月28日(日)午後2~4時
by homeopa | 2015-06-24 22:02 |

bliss of solitude

b0170947_21193112.jpg

新年の1冊はこれ。
『孤独であるためのレッスン (NHKブックス)』


思いかえせば、孤独はわたしの人生のテーマだったかもしれない。
生まれた家、幼稚園、学校、会社、ママ友社会・・・・
集団の中で居心地がいいと感じたことはあまりなかった。
いつも自分だけはずれている気がしていた。

人と一対一で会話をしたり、
ひとりで何かをつくったり・考えたり・読んだり・歩いたりすることは好きだけれど、
そういう自分を 「社会性に欠ける未熟な人間」 と見て引け目を感じていたので、
ひとりでいても落ち着けなかった。
それが6年ぐらい前、ある友だちから 「ひとりであることの豊かさ」 という言葉を聞いて、
スコンと腑に落ちて、
以来、ひとりでいることにも、孤独であることにも、やっと素直な喜びを感じるようになった。
それまで10年近く、折に触れとっていたレメディーのおかげもあるかもしれないけど。


そんなわたしだから、
ガガが中高生のとき仲間はずれになるのをいつも恐れているのを見て、
その気持ちは理解できた。
でも反面、今の中高生は、わたしが中高生だったころよりもはるかに激しく、
仲間はずれになることや、ひとりになることを恐れすぎているとも思った。
ひとりでいることは恥ずかしい、惨め、心細い、無力、かっこ悪い、という固定観念で自分を縛りつけ、
ひとりでいる他者を見くだしたり敬遠したりする。
みんながその固定観念の被害者になり、加害者になる。
親や教師もそれに加勢する。
なんて窮屈な社会だろう。



集団からはずれてひとりになることは、
すべての人間の権利であり、
ときにはそれがなければ先に進めない必須事項でもあり、
人生を豊かにするための絶好の機会でもある。

そういうことがこの本に書いてある。
ひとりになることを恐れて縮こまっている若者たちや、
大人になってもその恐怖から解放されない人たちや、
子どもが集団になじめないと心配している親たちが読めば、
今までとはちがった視点が得られるかもしれない。

読んで損のない本だと思うので、
興味がある方はぜひ読んでください。

(以下 囲みの中は上の本からの引用)

      
既に成熟社会を迎えた、否、成熟した大人の社会となることが必須の課題となるこれからの日本では、速さ (効率) や多さ (量) といった水平的な尺度に価値が置かれてきたこれまでと異なり、深さという垂直次元の尺度に価値が置かれるようになってくる。そんな時代をタフにしなやかに生き抜いていくために最も必要な能力こそ、孤独になる能力、孤独になって自分の心と対話し、想像力を駆使してものごとを多様に構想することができる能力なのです。

                                          
      
ひとりじゃいられない症候群・・・・この症候群にかかっている子供たちの最大の問題は、ひとりでいることができず、思春期・青年期の心の成長に不可欠な自己との対話がじゅうぶんいなされないことです。絶えず、何かの刺激にさらされているから、自分自身を見つめることができない。むしろ、それをどこか強く恐れ、避けているところがある。最近の若者の多くが、どこか妙に子どもっぽく、成熟を拒否しているように見える原因の一端は、この孤独嫌悪=〝ひとりじゃいられない症候群〟に、またそれを可能にしている携帯電話、メール、インターネットなどの、現代の社会環境にあると思われます。




b0170947_21195295.jpg

孤独という状態を、著者は下のように表している。

      
孤独を深めていって、はじめて手に入るもの。
それはまず、自分自身の心の世界の自由です。

      
独自の精神世界が創造・展開されうるには、孤独という一種の感覚遮断機、あらゆる種類の人間関係の刺激や雑音から身を遠ざける感覚遮断装置が必要だ、という端的な事実を指摘したいのです。

      
社会のリズム、社会の側で共有された時間の流れからみずから離脱し、自分固有のリズム、自分固有の時間の流れに従って生きていくことを選ぶ。外の流れに左右されない、しっかりとした自分を持つ、時間を止め、自分の内側、自分の〝存在の核〟に向かって問いを発していく。そしてそこから答えが返ってくるのを待つ。その答えを受けとめる。



なんだか瞑想みたい。
著者は、人間がより充実した生を生きるためには、
このような瞑想の時間が、あるいは孤独になる時間が必要だと言っている (同感)。
その理由は・・・・

      
社会の中で生きていこうとするには、みなが考える言葉で考え、みなが語る言葉で語らなくてはなりません。これは社会の中で生きていく上で必然的な営みであり、したがって致し方のないことではあるのですが、そのことにあまりに慣れ親しみすぎてしまうと、私たちは、自分自身の言葉を失い、自分の心の世界を見失ってしまいます。



つまり人間は社会で生きているうちに、
ついつい自分を見失うものなのだ。
だから見失った自分を再発見するのに、ひとりになることが必要なのだ。

孤独になることで、人には四つの出会いが起こる、と著者は言う。
それは;

1.自分との出会い
2.他者との出会い
3.普遍的なものとの出会い
4.超越的なものとの出会い


1がなければ、2も3も4も起こらない。
1とはつまり、見失った自分を見つけだすこと。

そのために、孤独のなかで人は自分と対話する。
そのとき大事なのが、自分に語りかけないこと。
ここを読んで、わたしはなるほど! と膝を打った。

      
私がおすすめしたいのは・・・・・ポジティブな言葉であれ、ネガティブな言葉であれ、自分自身に語りかけるのをやめる、ということ。そして、心にスペース (空間) をつくって、そこで逆に、自分の心のほうが自分に語りかけてくるのを待つこと。そして何かメッセージが出てきたら、その一つひとつを受けとめるということ。そこで出てくるものは、その内容がポジティブであれネガティブであれ何であれ、それにかかわりなく、すべて認めるということ。
この、すべて認める、待つ、聴く、受けとめる、という姿勢で、自分の心のほうから発せられてくる声とかかわっていくこと。
この姿勢が、充実した自分との対話をおこなっていく上で、最も大切なことだと思うのです。

      
私たちの内側に生じてくる、ちょっとした違和感やざわめき、何かをささやくような声――これらはすべて、何か大切な意味を含んでおり、あなたに何かを語りたがっています。だからこそ、あなたに関心を向けてもらうことを必要としているのです。それはあなたの人生で、あなたが気づく必要のある大切なメッセージをあなたに運んできてくれているのです。



行きづまったとき、自分に励ましや慰めの声をかけてもあんまり役に立たないのは、
日頃わたしも感じていた。
それより、どうしようもなくなって考えるのもやめたときに、
ぽそっと無意識につぶやいた言葉で、自分の思いに気づき、それだけで心が晴れることがよくあった。

これは他者との対話でも同じだな。
だれかが悩んでいるときに、励ましたり助言したりしても、
あまり効果はない。
それよりひたすら相手の話に耳を傾け、うなずき、受けとめていると、
相手が勝手に何か答えを見つけていたりする。
「すぐに何か言わないで、とにかく受けとめてよ!」 とガガにもよく言われたものだ。



もうひとつ、自分と対話するときに大事なのは、
自分のなかのさまざまな自分を差別しないこと。

      
私たちはしばしば、自分の心のさまざまな部分のうち、ある部分 (例 たくましくて、さわやかで、いさぎよい部分) にだけ注意を払い、それを認め、しばしばそれと自分を同一視します。それにより、〝なりたい自分〟になることで、個性を実現しようとするのです。
しかし、このようにして実現された個性、理想的なイメージに自分を当てはめて実現された個性は、ほんとうのその人らしさという意味での、真の個性ではありえません。
そうではなく、自分の心のどの部分、自分の内側から聞こえてくるどの声にも耳を塞がず、どの声にも耳を澄ますこと。自分の内側から聞こえてくるどの声にも、無視したり軽視したりすることなくきちんと耳を傾け、そしてその声を曲げたりすることなく、そのまま認め、受けとめること。そのことによって訪れる、どうしてよいのかわからない立ち往生の状態。その中から、おおずと生まれてくる在り方。もう〝そうでしかありえない〟というギリギリの選択の中からおのずと生まれてくる在り方が、ほんとうのその人らしい在り方であり、真の自己実現、個性の実現でもあるのです。


ここで著者は谷川俊太郎さんの詩を引用している。
わたしも好きな詩なので、引用。

      
ひとつのおとに
ひとつのこえに
みみをすますことが
もうひとつのおとに
もうひとつのこえに
みみをふさぐことに
ならないように
       (谷川俊太郎 『みみをすます』 福音館書店)





b0170947_1448185.jpg

孤独のなかで出会うことの4番目---人間を超えた何かとの出会い。
(2、3は、今のわたしにはあまり面白くなかったのでスキップしちゃう)

      
そのとき、孤独人が出会うのは、特定のかたちを持った何か、ではない。
むしろ、まだ何のかたちも持ちえない、未定型な、不気味な何か。
あえて言えば、〝剥き出しの世界そのもの〟とでも言うほかない。
どんなかたちも持ちえないがゆえに、どんな言葉で表現されることも拒む、その何か。
その何かの前で、孤独な精神の持ち主は、ひとり途方に暮れて、たたずむよりほか術はないのです。


わたしもよく途方に暮れてたたずんでいるけど、
こんな大それたことではないような・・・・・

      
それを神と呼んでしまうなら、もちろんそう呼ぶこともできます。しかし、そう呼んでしまうと、あらゆる理解を超えたその何ものかの、〝言語を絶した〟あの感じがうまく伝わらない---- 


わかるな。
わたしも言語を絶したものに、よく遭遇するのだ。
絶対に知っている人なんだけど名前が思い出せなくて声をかけられない相手とか・・・・冗談よ。


     
しかし間違いなく、こうした体験のエッセンスをなすものの一つは、〝主体の転換〟の体験、そして、それに伴う〝立脚点の転換〟の体験です。
つまり、こうした体験を持つ以前は、人は私を中心にこの世界を、この人生を捕らえている。私は、私以外の何ものでもなく、私以外ではありえない、と思って、いわば常識的に、自分を、この世界を捕らえている。
しかし、人間を越えた何ものか、語りえぬものの直接体験が生じた後は、しばしば、この何ものかを主体として、自己を捕らえ始める。
私はたしかに私であるが、同時に、この何ものかがとった一つのかたちであるかもしれない。その見えない何かが、この見える世界で、たまたまとった一つのかたちが、私なのかもしれない---- そんなふうに、この語りえない何か、見えない何かの側から、それを主体として、そこを立脚点として、そちらの側からの自己や世界を捕らえたほうが、リアルな自己理解であり世界理解である、と感じられる。そんな瞬間が訪れるのです。

      
すると自分を離れた地点、自分を超えた地点から、自分を見つめるもう一つの目を意識し、その目を通して自分自身を見つめることができるようになる。

      
この視点を持つことによって、孤独な人は、その完全な孤独において、実は孤独ではなく、その、人間を超えた何ものかとの対話の中で生きている、ということに気づくことができるのです。

      
あなたがそのようにして、あなた自身の声に従って生き、また、あなたと同じように自分自身の声に従って生きている人々とのつながりをたしかなものにするとき、あなたは自分が、単に自分自身の声に従って生きているだけではなく、あなたを超えたところからあなたに届けられている何らかの声に従って生きてもいるのだということに、気づいていくでしょう。
・・・・・・あなたが、あなた自身の声に、深く深く耳を傾けていくとき、そのことと、あなたに小さな声で語りかけてくる運命のささやき声に耳を傾けていくこととが、実は一つであり同じことであることが、次第に実感されてくるでしょう。



ふう。
まあ、こんな感じ。

この本を読んでひとつ発見したことがある。
世の中になじめず、世の中とつながれない疎外感、孤独感は、
実は自分とつながれない孤独感なのだということ。

そんなときは、心置きなくひとりになればいい。
そして自分の声に耳を澄まし、自分の声を聞き、自分を受けいれ、自分とつながったときには、
世界ともつながれるようになる。
自分とつながったその先に、
本当の意味での他者とのつながりや、
名づけられない剥き出しの世界そのものとのつながりがある。

わたしも今は、集団の中にいてもそんなに居心地悪くはない。
前よりおしゃべりになったわけでも、社交的になったわけでもないけど、
たぶん前より自分を受けいれ、自分とつながっているんだろう。
だから疎外感をあまり感じないのだろう。






※シェリー・タークル: つながっていても孤独?







※ホメオパシー入門講座のお知らせ 2015年1月18日(日)10~12時 

by homeopa | 2015-01-10 09:34 |

silence

b0170947_21215538.jpg


静寂に耳を傾けることは、どこにいるときでも、「今にある」 ための簡単で直接的な方法です。
音があるときでも、その下にはいつも静寂があります。音と音のあいだにも静寂があります。
静寂に耳を傾けたとたん、あなたの中に静けさが生まれます。


すべての音は静寂から生まれ、静寂に消えます。そして音は生きているあいだも静寂に囲ま
れています。静寂があるから音があります。それはすべての音、すべての音色、すべての歌、
すべての言葉に本来そなわっていながら見えない部分です。見えないものは、静寂としてこの
世に存在します。静寂ほど神に似ているものはないと昔から言われてきたのはそのためです。
あなたがするべきことはただひとつ、静寂に意識を向けることです。会話の最中でも、言葉と
言葉のあいだのすき間を、文章と文章のあいだの短い静寂を、意識しましょう。そうすると、あ
なたの中で静けさの領域が広がります。静寂に注意を向けているときに内部に静けさがないと
いうことはあり得ません。

                                 ---- Eckhart Tolle 「The Power of Now」











Voyage by Youn Sun Nah ♪






※ホメオパシー入門講座 12月14日(日)14:00~16:00

by homeopa | 2014-12-09 21:22 |

independence is dependence

b0170947_22154017.jpg


「自立とは依存すること」
なのです。

人間、いや、生命は、何かに寄り掛かることなしには生きられません。
ですから、より多くの人に寄りかかることのできる人こそが、より自立した人なのです。
誰かに寄りかかることは悪だと思いこんでしまうと、寄り掛かる先が減ってしまいます。
そうすると残った少数の寄りかかり先に強く依存することになり、
それは依存ではなく、隷属です。
実際問題として、独立だと大見得を切った安倍政権こそがアジアでの孤立を深め、
アメリカへの隷属を強めているではないですか。

                             ---- 安富歩 『ジャパン・イズ・バック』





これは盲点だったな。
上の本からほかにもちょっと引用すると・・・・


たとえば安倍晋三君の演説;

  「強い日本」。それを創るのは、他の誰でもありません。私たち自身です。
  「一身独立して一国独立する」
  私たち自身が、誰かに寄り掛かる心を捨て、それぞれの持ち場で、自ら運命を切り拓こうという意志を
  持たない限り、私たちの未来は開けません。


これを、安富さんは次のように変えてはどうかと提案している;

  「強い日本」。それを創るのは、私たちの生きる力です。
  そして一人でも多くの人に依存せねばなりません。
  「依存すれば依存するほど、日本は自立する」
  私たちはできるだけ多くの頼れる友だちを世界中に作り、そのご縁によって、
  やりたいことを楽しくやっていきましょう。その勇気を持とうではありませんか。
  そうすれば未来が開けます。


簡単に言えば、持ちつ持たれつ、お互いさま、ということかな。

そしてこんなことも;

  それにしてもなぜ彼らは、「強さ」 を求めるのでしょう?
  理由は簡単で、安倍首相のような強度の立場主義者たちは、「立場」 のために、
  自らの生き生きとした感覚を封殺しています。
  つまり人間なら誰しも持つ、内なる 「生きる力」 をなくしてしまっているのです。
  そういう人間は弱虫です。だから、「強さ」 という言葉に憧れ、強力な力を、破壊的な力を欲します。
  そしてその破壊力を使ってこの苦しい世の中から立ち去りたい、つまり死に魅入られているのです。
  しかし、弱虫には自分一人で死ぬ根性すらありませんから、皆を道連れにしたいのです。
  その根性すらない場合には、死ぬまで生きていたいのです。
  自分の生きる力ではなく、人や自然や環境のエネルギーを搾取して。
  だから核エネルギーなのです。原発と核武装、高速増殖炉と核燃料サイクル。
  



日本は民主主義国ではなく、「立場主義人民共和国」 だと安富さんは書いている。
つまり国民の多くは自分の心に従って動くのではなく、
立場のために動いていると。
家族の一員としての立場、会社の一員としての立場、地域社会の一員としての立場、
母としての立場、父としての立場、社員としての立場、社長としての立場、官僚としての立場、
医師の立場、ホメオパスの立場、日本人という立場 ・・・・
この 「立場主義」 について詳しく検討したい方は、ぜひ本を読んでください。
日本社会というものについて、新たな視点が得られるかもしれません。
そして 「立場」 のない人たちのことも。

なぜ安倍晋三君が 「息を吐くように嘘をつく」 のか、
なぜそういう人が首相として日本社会に支えられているのか、
安倍政権の政策は明らかに狂っているけれどどこがどう狂っているのか、
これらの論点について300字以内で簡潔に説明せよ、
と言われても答えられないわたしのような人間にとっては、
いろいろと参考になることが書いてある本だった。
読んだあとでも300字以内にまとめられないけど。

あとがきによれば、安富さんはこの本を書きだしてからとてもつらくなって、
なかなか書きあげることができなかったそうだ。
日本の現状があまりに絶望的に思えて。
にもかかわらず、ところどころにジョークをちりばめてくれて、
ときどき笑いながら読める本になっている。

いずれにしても、すべては自分を知ることからしか始まらないし、
自分を知ることは簡単ではないなと、
また思った。







※立場主義とちょっと関係のある記事



※小室淑江さんのTED講演 --- 少子化をふせぐには長時間労働をなくすこと



※「残業ゼロで日本の未来を変える」小室淑恵のマネジメント(1/3)



※「残業ゼロで日本の未来を変える」小室淑恵のマネジメント(2/3)



※「残業ゼロで日本の未来を変える」小室淑恵のマネジメント(3/3)

by homeopa | 2014-10-29 22:09 |

カルト資本主義

今さらだけど、今年の花火。
三脚も高感度フィルムも使わずにこれだけ撮れればまあ満足かな。
b0170947_11425455.jpg

b0170947_1143467.jpg
b0170947_11431396.jpg
b0170947_11432395.jpg
b0170947_11433138.jpg


それはそうと、こんな本を読んだ。
カルト資本主義 (文春文庫)

ある方が、もう読んだので、もし読むなら、とまわしてくださった本だけど、
なかなか面白かった。

目次はこんな感じ。
第一章 ソニーと 「超能力」
第二章 「永久機関」 に群がる人々
第三章 京セラ 「稲盛和夫」 という呪術師
第四章 科学技術庁のオカルト研究
第五章 「万能」 微生物EMと世界救世教
第六章 オカルトビジネスのドン 「船井幸雄」
第七章 ヤマギシ会--- 日本企業のユートピア
第八章 米国政府が売り込むアムウェイ商法
終章  カルト資本主義の時代




オカルトとは、今の科学や常識ではあり得ないと思われるような不思議な現象のこと。
 世の多くの人から見れば、ホメオパシーもこの範疇に入るのだろう。

カルトとは、強力な指導者のもとに大勢の人間がつどい、
 狂信的に彼の考え方を信奉し、それに従ってみなが同じように行動すること。

というのが、ここでのわたしの定義。
たぶん著者も似たような定義にもとづいて論じているんだと思う。

オカルトを信じる人々が、いかにカルトに移行しやすいか。
資本主義を推しすすめている大企業の経営者たちが、
いかにオカルトを利用してカルト的状況をつくりあげ、人々をコントロールしているか。
そんなことが書いてある。

わたし自身は 「気」 は確かにあると思っているし、
目に見えるものだけが世界のすべてではないと思っているし、
バクテリアがわたしたちの生活に貢献してくれていることも事実だと思っているし、
永久機関が実現したらいいなあと希望を抱いているし、
超能力というのも実際にあると思っているし、
自分の人生に起こることはすべて起こるべくして起こるのだろうとも思っている。

著者は上のような考え方をすべてオカルトとして端から否定した上でものごとを考察しているので、
そこはちょっと気に入らないけれど、
でもこの本から学ぶことはたくさんあった。
もともと、「みんなで一緒に」 が苦手なたちなので、その点で共感する部分もある。

何よりも、日本の指導的立場にいる人たちのあいだで、
オカルトがこんなに持てはやされているとは知らなかった。
しかもその持てはやされ方が、お金儲けに利用できるという持てはやされされ方であること、
それにまんまと誘導される人々がたくさんいること、
その流れが国の動向にまで影響していること、
これは頭の片隅に置いておいてもいいことだと思う。


            ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※


上の本から、頭の片隅に置いておきたい部分を下にメモ。

  ここまで読んで私は、以前国会図書館で調べ物をした際にたまたま発見し、興味を持った論文を思い
  出した。「現代天皇制とオカルト・ブーム」 と題されたこの論文は、世論調査や独自のアンケート調査
  の結果などから、近年の若者が超能力や新宗教に代表される神秘主義に魅かれており、また彼らの
  天皇制に対する感情が好意的な方向に変化し、併せて権威主義を強めつつある状況を割り出し、
  両者を関連づけた議論を展開していた。
  <特に子ども・青年のなかで、無力感・孤独感・自信のなさ、生きがいの喪失などが広がる一方、
  絶対的・神秘的なものに救いを求める傾向が広がっている。
  他方一九七〇年代半ば以降、政策側は霊的なものの政治利用を急ぐ一方、八〇年代に入り国民
  統合のイデオロギー装置として天皇・天皇制の利用を模索している。そしてその重要な一貫として
  子ども達に 「人間の力を超えたもの」 すなわち、霊や絶対者 (神・天皇) への 「畏敬の念」 を必死
  で育成しようとしている>
        (前島康男 「現代天皇制とオカルト・ブーム」 『熊本大学紀要』 第二十六号一九九二年)



   哀れなるかな日本人は、行き詰まった文明社会に疲れ傷つき、少しでも癒やされたい、人間らしく
  生きたいと願って船井の講演や著書に飛びつく。オカルトに走る。だが、そこに待ち構えているのは、
  ニューエイジというと一見新しいが、日本人にとっては実になじみ深い、伝統的な価値観に過ぎなか
  った。すなわち自己の否定あるいは没我、ないし〝和〟による全体主義。
   したがって船井の言動は、どれだけ浮世離れし、胡散臭く聞こえても、決して〝反体制〟にはなら
  ない。それどころか警察権力さえ後ろ盾になる。
   愛知学院大学教授の高際弘夫 (貿易論) は、日本の集団秩序について論じた 『日本人にとって
  和とは何か』 で、こう書いている。
  <人びとが和集団の形成を完了したとき、すなわち一心同体の群れをなしたとき、特に群れをなし
  て旅行するとき、その構成員は群集心理に全く身をまかせてしまう。あるいは、より正確には群衆
  心理に身をまかすことを要求される。人びとは思考を止め、自制心を失う。この状態における和人
  は、単に粗暴であるにとどまらず、狂気に近い。この群集心理に身を任す行為あるいは心の癖は
  六〇年ほど前の中国への、今となっては理解しがたい、無意味のみならず、破壊的な侵略を続行
  せしめ、そして、その当然の帰結としての全世界を相手とする戦争の原因となった>



  〝無我執〟も〝ポジティブ・シンキング〟も、個人の折々の生活信条の範囲から、断じて逸脱して
  はならない。共通の価値観にさせてしまってはならない。
  そうした思考パターンに〝上〟から誘導され、現実の社会の中で、あたかも〝普遍の真理〟のよ
  うに扱われるようになった時、国家や大企業の指導者層に属していない大多数の普通の人間は、
  今以上に、人間として生きることができなくなる。



  経済的利潤だけでは割り切れない多様な価値観の塊としての人間存在と、企業とは、どこまでも
  共存共栄の関係までにとどめるべきで、ましてや一体化など言語道断である。ところが現状は、
  雇用という最大の社会貢献機能を放棄し剥き出しになった企業の生産性の論理だけが、これまで
  以上に個々の人間、さらには人間社会全体を覆い尽くそうとしている。
  人間の自我を失わせ思考停止に陥らせるオカルティズムが、日本をそのような悲劇に操り導く強力
  なエンジンになっている、これぞカルト資本主義なのだと、私は本書で主張した。しかるに三年後の
  現在、オカルトには必ずしも犯されなかった人びとも含めて、思考停止は日本人の常態になってし
  まった。

  (メモおわり)


      ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※


うそはほんとによく似てる
ほんとはうそによく似てる
うそとほんとは
双生児

うそはほんととよくまざる
ほんとはうそとよくまざる
うそとほんとは
化合物

うその中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ
       ---- 谷川俊太郎





John Lennon -Watching The Wheels (acoustic) ♪







※山本太郎さんの演説 「大企業・大資本のための政治」 2014年9月24日大阪

by homeopa | 2014-10-07 17:41 |

ぷるんぷるん

b0170947_2223074.jpg

成人してから今まで8回引っ越しをしてきて、
そのたびに本棚の中身を片づけたけれど、
それでも8回の引っ越しを生きのびてきた本が何冊かある。
これもその1冊。

「原初生命体としての人間」― 野口三千三著

こんなふうに棚の奥にしぶとく居すわりつづける本は、
たいてい何度も読みかえしている。
でもこの本は30年前に一度読んだきり、
ページを開くことがなかった。

だから内容はほとんど忘れてしまっていたけれど、
ひとつだけ覚えていたことがあった。

人間のからだは薄い膜で包まれた水である、
という考え。
初めて読んだとき、それをどう感じたのかは覚えていない。
ただ気がつけば、以来わたしは、
身体を動かすときにいつもどこかでこれを意識していた。
それぐらい心のどこかに引っかかる本だったのだろう。

で、読みだしたら、
面白くて、面白くて。

この本の中で野口さんは、
生卵はテーブルの上に立たせることができると書いている。
本当かなあ、と思ったので、
やってみた。

b0170947_12341075.jpg


立った。
それも、わりと簡単に。
こうなると俄然、もっと読もうという気になってくる。

卵が立っている状態に関して、
野口さんはこう書いている。

   中身は力んでおらず流動体のままである。それは外からでもよくわかる。悠然として余裕綽々、すっき
   りと大らかである。突っかい棒や引張り綱で無理矢理にしがみついて立っているのではない。ふんばる
   べき脚をもたなくとも、しがみつくべき腕をもたなくとも、たとえ床に接するのはただ一点であっても、当
   然立つべき条件をもっているから、立つべくして立っているのである。でっち上げのごまかしで立ってい
   るのではない。立つことが当たり前であるから、ただずっとそこに立っているのである。素晴らしい。美
   しい。これが地球の上に、床の上に、立つということの基本でなくて何だろう。


でもこの生卵、まわりでちょっと動くと、すぐ倒れるのよね。
それについても、野口さんは書いている。

   立っている生卵は少しゆするとすぐ倒れてしまう。始めのうちはこのことが私に不安と脆弱さを感じさせ
   た。やがてこの感じは変わってきた。倒れる生卵はけしてあわてず騒がず悠々として、大自然の原理の
   ままに任せきってなめらかに倒れるのである。それは瞬間の出来事であるにもかかわらず、ゆっくりたっ
   ぷりとして感じられる動きである。顔色も変えず中身をかためることもなく。止まった後もまた悠々として
   そっとそこに寝るべくして寝ているのである。立派である。やはり美しい。

   立っているものが少しの外力ですぐ倒れるということは、立っていることにとって不安定であり、不安感
   をともなうことは確かである。しかしその反面は、わずかなエネルギーが働くだけで倒れることができる
   能力をもつ、自分の姿勢や位置を変える可能性をもつ、つまり、動きの能力が高いということになるの
   ではないだろうか。

   「不安定を創り出す (バランスを崩す) 能力は動きのエネルギーを創り出す能力である」 と積極的にと
   らえなければならない。

たかがテーブルの上に立った生卵のことで、
ここまで書ける野口さんには、
抜きんでたオタクを見たときに感じるような驚愕と笑いと深い尊敬の念を覚える。
だいいち、生卵に顔色があるとは知らなかった。

でも同時に、読みながら、
生卵になったかのように椅子の上で座りなおしている自分がいる。
これが重力に身をゆだねて座るということか、
などと実験しはじめている自分がいる。

わたしが落ちこんだり、しょぼくれたりするときは、
自分の中からもう何も新しいことが沸いてこないような、
自分はもう変わらないような、
自分のことはもう見えきってしまったような、
そんな気持ちになっていることが多い。

この本を再度手にとったときも、
少しそんな気持ちだったかもしれない。

でもこれを読んでいると、
この自分の小さな身体が、
ものすごい謎と美と可能性をひめた宇宙のようなもので、
それを探索しはじめたら、
退屈などしている暇はないという気がしてくる。

さまざまな動きを試しながら、
その瞬間の身体の感覚に耳を澄ませると、
今まで意識しなかったような感覚が、
次から次へと沸いてきそうな気がする。

自分の身体の感じ方が変化すれば、
当然、まわりの人たちや世界の見え方も変わるだろう。
世界の見え方が変わるということは、
世界が変わるということだ。

野口さんは、動きの実験をたくさん紹介している。
そしてどの動きでも、

    この本に挙げてあるすべての運動を通じて、動きの経過のどの瞬間においても、どのような姿勢にな
    ったときでも、からだのどの部分でも、ゆすろうと思えばゆすることができなければならない。

と言っている。
何しろ身体は液体だから、
ぷるんぷるんと揺すれるのが自然なのだ。
それで最近わたしは、ヨガのポーズを止めるときに、
ほんの少しだけ身体を揺すってみるようになった。
ヨガとしては邪道なのかもしれないけど、なんかいい感じ。
揺するとバランスが定まって、余分な力が抜けて、流れもよくなるような気がする。

野口さんが紹介しているヨガの逆立ちは、
このぷるんぷるんした袋を、
生卵と同じように、
重力の矢印に添わせて立たせることがポイント。
何度かやってみたけれど、まだ成功したことがない。
でもぷるんぷるんがすっと立ったときの、
何の力も入らない澄みきった感覚は想像できる。
その感覚を味わってみたいから、
きっといつかできるようになろう。

    よい在り方、ほんとうの在り方は、練習をするにしたがってだんだんわかってくる、ということが一般の
    原則である。しかし、練習を重ねているうち 「ある日、ある時、突然に……」 ということ、「必ず、いつ
    か……」 ということもまたひとつの原則である。

ま、こんなわけで、
とても楽しめる本であることに気づいた。
最初に読んだときは、
妙に理屈ばかりこねているような印象があったけれど、
それは、身体に対するわたしの感覚があまり目覚めていなかったので、
野口さんの言葉が感覚として受けとめられなかったせいだろう。

    体操とはからだの動きを手がかりにして、人間とは何かを探究する営みである。

人間の探究だから、
呼吸のこと、言葉のこと、排泄のこと、筋肉のこと、
意識のこと、無意識のこと、バランスのこと、感覚のことなど、
いろいろなはなしが出てくる。
面白いところに赤線を引いていたら、
赤線だらけになってしまった。

つまり引用したい文章がたくさんあるということだけれど、
それはこれから折々、引用させてもらうことにして、
とりあえずここは、下の文章を引用して終わろう。


    自分の中にある、自然から分けあたえられた自然の力により、
    自分の中にある、自然から分けあたえられた自然の材料によって、
    自分という自然の中に、自然としての新しい自分を創造する、
    そのようないとなみを体操とよぶ。


    何百年将来のことか知れないが、今までの観念ではおよそ体操とは呼べないような、ある種の奇妙な
    からだの動きが創造される。それがある目的にしたがって適切に処方されると、性格も知能も感情の
    状態も、その人が望ましいと思う方向に変わっていく。じつは、性格も知能も感情も、何を望むかの判
    断や意志さえも、それらの動きすべてが、広い意味での、からだの動きそのものなのである。このよう
    な可能性をもった体操を私は本気で考えている。


    私はこのように、人間の外側から何かをつけくわえたり、破壊して取り去ったりするのではなく、人間
    の一生における可能性のすべての種・芽は、「現在の自分の中に存在する」 のだと考えて、今自分
    自身の中にもっていながら、自分をふくめて誰も気づいていない無限の変化発展の可能性を、自分
    自身のからだの動きを手がかりとして、それを発見して育て、また、それがどんなものであるかさえ
    認識の網ですくうことのできないものまでも、そのままで発達させることができるものと考えるのであ
    る。


野口さんは体操の先生なのだ。








※上とは関係ないかもしれないけど、関係があるような気もする、非暴力闘争の方法 by ジーン・シャープ
  けっこう感動した。
  日本にも必要になるかもしれない。


昨日会った友人が、「いとこ同志」
という古いドラマのはなしをしてくれた。
小林薫と田中裕子主演で、1930年代ころを舞台にした、
向田邦子原作・久世光彦演出のドラマだそうだ。
タイトルを聞きまちがえて 「男同士」 で検索したら、
男性と男性のいろいろ愉快な夜のもつれに関する情報がどっと出てきて、笑った。
それはともかく、このドラマを見ていると今の日本の状況とあまりにそっくりでぞっとしたと、友人が言っていた。
by homeopa | 2013-12-25 09:44 |

similimum

b0170947_922053.jpg

川原のカボチャに花が咲かない。
わたしが種を蒔いて発芽したカボチャは、
とっくに草に埋もれてどうなってしまったかわからない。
でもそれ以外に、勝手に自生したカボチャが川原のあちこちに群生していて、
大きな草によじ登って茂っていたりする。

でも花をつけているものがひとつもない。
川に流れでた合成洗剤などの環境ホルモンのせいかなー、
なんて考えている。




関係ないけど、近所のブックオフで見つけた本。
「傷つくあなたへ」 江原啓之(集英社)

以前、うちにテレビがあったころ、
江原さんと美和明宏さんがやっていた 「オーラの泉」 は、わりと好きで見ていた。
ふたりの言っていること、すごくまっとうだと思って。
この本も、とてもまっとう。

現代人は傷つきやすい。
たぶん現代人は前の時代の人たちより傷つきやすくなっている気がする。
根拠は示せないけど。

だからみんなこの本を読んでみたらいいと思う。
とくに、いじめにあっている人、
いじめられた経験から立ちなおれていない人は。

読んでみると、そうだよね、とあたりまえのように思うけど、
傷ついている最中は、そのあたりまえのことを忘れてしまうのだ。

目次代わりに、「傷つくあなたへの30のメッセージ」 というのがあるので、
そのなかから少し書きうつしてみよう。

◆幸せな人は意地悪をしません。意地悪をするのは、その人が不幸だからです。
◆あなたを傷つける人は、自分でももがき苦しんでいます。
  あたたはそのストレスのはけ口になってしまっただけなのです。
◆あなたを非難する人たちは、あなたという 「鏡」 に映った自身を憎んでいるのです。
◆何かを言われて傷つく前に、よく考えてみてください。
  相手はいったいどれだけあなたを知っているのでしょう?
◆ささいな失敗にめげて傷つく心理には、実は 「甘え」 がありませんか?
  泣くのがいやなら、自分で立ち上がるしかありません。
◆人は人との関係のなかでしか磨かれません。
  あなたのたましいは 「傷ついた」 のではなく、ピカピカに 「磨かれた」 のです。
◆傷つくことを避けて小さく生きていれば、喜びも楽しみもちょっぴりしか得られません。
◆傷つくというのは、実は 「傲慢」 なことともいえるのです。
  「小さき者」 としての謙虚さがあれば、傷つくことはありません。
◆傷ついたあなたは幸いです。
  なぜならその分、早く 「目覚める」 チャンスを得たからです。

こんな感じ。
そして各メッセージを、さらにわかりやすく説明している。

こういう本は、口当たりはいいけど深さがないものって多いけれど、
わたしはこの本のシンプルで明快な言葉に深い洞察を感じた。

いちばん傷つきやすい思春期の子どもたちに読んでほしいけど、
大人がときどきぱらぱらめくっても、いいんでないかなと思う。
わたしもときどきぱらぱらめくって、そうだった、と思いなおしている。
巻末には江原さんの文明論みたいなものもあります。

最後に、ホメオパシーの原理をよく言いあらわしている一章があるので、
そこを下に書きとめておこう。
べつに江原さんはホメオパシーのことを言っているのではないけど、
真理はどこにでも通用するのだ。

(以下 引用)

  妊娠した女性は、しばしばこう言います。「今までは、こんなに多くの妊婦さんが街を歩いていることに気がつかなかった」。自分が妊婦になったことで、ほかの妊婦の姿が目に飛び込むようになったと言うのです。
  同じようなことは人生によくあります。人間は、大勢の人がいるなかでも、自分と共通点を持った人をぱっと見つけて意識するものです。
  いい共通点にも気づきますが、よくない共通点にも気づきます。たとえば臆病な人は、他人の臆病さがすぐにわかります。貪欲な人は、他人の貪欲さに鋭く反応します。相手のちょっとした言動にもそれを感じとり、「ああ、いやだいやだ」と嫌悪してしまうのです。
  困ったことに、このとき人は、「自分にも同じところがあるから気になるのだ」という事実になかなか気づきません。それは相手だけが持つ性質で、自分にはそんないやな性質はないと信じがちです。
  人間は、自分のコンプレックスにかかわることを他人の中に見つけたときも、敏感に反応します。たとえば「あいつ、もうけやがって」と憤る人は、自分がもうけたいのです。「あの子、自分がモテると思ってさ」と陰口をたたく人は、自分がモテたいのです。しかしそんな本心にもなかなか気づきません。
  こうしたことは、人間の目が外向きについている以上、しかたのないことなのかもしれません。外側はよく見えても、内側、つまり自分自身の心は見えないのです。
  それでも昔の人は、人間のそういう困った性質をよく知り抜いていて、「人のふり見てわがふり直せ」といった教訓でみずから戒めたものでした。気になる相手というのは、つねに自分自身を映し出す「鏡」であることをよくわかっていたのです。
  そもそも人は、自分のなかに全然ないものなら、他人が持っていても気づきませんし、知っても気になりません。自分と同じものを他人に見つけ、それが日頃から無意識のうちに嫌悪しているものであるときに、抑えがたいほどの反発を覚えてしまうのです。
  人を攻撃したり、批判したり、いじめたりする人には、ほとんどの場合、この心理があります。
  あなたも誰かに非難されたら、「この人は自分にもそういう面があって、すごくいやなんだな」と思って間違いありません。「あなたのそこがきらい」と具体的に指摘されたら、相手は自分自身のそこがきらいなのです。

(引用おわり)

似たものは似たものに反応する。
その似たものとは、自分の中の不愉快なエネルギー。
たとえば、こだわり、執着、妄想、未解決の感情などなど。
似たものに対する反応を症状という。
反応したときは、つまり症状が出たときは、
不愉快なエネルギーを発散して解消するチャンスでもある。
レメディーは、その似たものの役を果たす。
これがホメオパシー。

だから自分に怒りや嫌悪感をもよおさせる人は、
ありがたいレメディーなのだ。

ちなみにわたしは、人のなかに偽善を感じると激しく反発する。
そして人の臆病さを敏感に感じとる。
てことは・・・・・臆病な偽善者! ガーン!






※原発再稼働に抵抗する新潟県知事は感情的か?

※自衛隊に 「海兵隊機能」を持たせる意味とは?

※【シリーズ・これで良いのか、この国のかたち】農業は成長より持続が大事 農民作家・山下惣一氏
by homeopa | 2013-08-24 17:15 |

on and off

b0170947_16543997.jpg

あまり期待していないつもりだったけど、
でも心の底でほんの少しばかり変化を期待していたのかな。
悲しいわ、参院選。

でもね、ネットで書いていた人がいた。
熊本の、あるおばちゃんは、ダムの建設に反対して、
毎日その関連記事を議員さんにFAXしつづけたんだそうだ。
そして結局、ダムは建設されないことになったとか。
原発やTPPのことでもよく思うんだけど、
議員さんって、事実をよく調べていない人が多い気がする。
これから、わたしらが議員さんを教育していくって、なんかちょっとわくわくしない?



      ※  ※  ※  ※  ※  ※



はなし変わって、これも近所の小さすぎる図書館で見つけた本。
「増補決定版 がんに負けない、あきらめないコツ」 鎌田實著 (朝日文庫)

予想以上に内容てんこ盛りだった。
なので特にわたしが感銘を受けた部分だけご紹介しておこう。

著者の鎌田實医師と、
再発した乳ガンをかかえる女性患者さんとの往復書簡のなかで、
女性はこんなふうに書いている。

  私はきっと、死ぬ瞬間まで生きること、
  そして元気になることを考えていようと思います。
  それは、生きることにすがっていることとは、
  違うような気がしています。
  積極的な治療をやめて、
  痛みをとるためにだけ入院している患者が、
  元気になるねと、はがきを書いてよこしたと聞いたときは、
  そのはがきを書いた方の思いが理解できませんでした。
  でも今は、死を見つめると同じくらい、
  生きることを見つめていたのではないかと思います。
  やっと気づくことができました。
  

それに対して鎌田さんはこう書いている。

  がんは消えるかもしれないし、消えないかもしれない。
  たとえ病気があっても元気でいることは、
  あなたがおっしゃる通り、あり得ることだと思う。
  

がんを宣告されて、もう治療法がないと言われると、
人はたいてい、自分の人生は終わったと思う。
病院もその患者を放棄する・・・どうせ何もできないからと。
そしてホスピスはただ死を待つための場所。

でも冷静に現実的に考えてみると、
死ぬ瞬間まで、その人の人生は続いていく。
その人生は、医師の宣告どおりの期間であるかもしれないし、
もっと短いかもしれないし、
もっと長いかもしれない。

いつ終わるかわからない人生を、
一日一日、一瞬一瞬、
自分らしい仕方で生き生きと楽しく生きていこうとするのは、
病気があってもなくても、
人間の自然で健康なあり方だろう。

むしろ重い病気をかかえている人のほうが、
一日一瞬の重みを意識するだけに、
より充実した日々を送れる可能性がある。
つまり、病気の人のほうが、より健康になりえる可能性がある。

毎年60万人がガンに罹患し、
毎年30万人がガンで死に、
三人に一人がガンで死ぬ日本では、
(この本に書いてあったデータ)
こういうことをみんなが意識しておいたほうがいい思う。

大事なのはガンの腫瘍を消すことよりも、
ガンがあってもなくても、死ぬまで精一杯生きること。

そしてガンは、
攻撃的な治療であまり身体を傷めつけなければ、
最後の最後まで意識を保ったまま、自分らしく生きていくことが可能な病気だ。

しかも病気は人を変える。
病気はそれまで見えなかったものを見せてくれる。
だから病気は、新しい人生をつくり出すチャンスなのだ。
その人生が短くても長くても。

  (再び引用)
  病気を一つ二つ持っていること自体は、ちっとも不健康ではありません。
  豊かに生きるための手段である健康を目的化してしまうことが、
  不健康をもたらすのです。
  「健康のためなら死んでもいい」 という言葉は、とても病的です。
  健康というものは、あからじめ一つのモデルがあるわけではなく、
  もっと多様なものです。
  健康そうに見えるときでも、実は病気が隠れていたなんてザラにあるのです。
  一つや二つ病気があっても、健康だといえるときがあります。
  病気やガンにおびえないことが重要です。
  病気やガンに気持ちで負けないために、発想の転換をしましょう。

鎌田さんは、
病気を治療することだけでなく、
患者さんが最後まで充実して生きることを支援することもまた、
医師の大事な仕事なのだと考える。
そしてそのために、現代医学にかぎらず、
さまざまな療法を利用できないかと探りつづけている。
患者さんの治癒力を上げる方法を。
(現代医学の医師としてはめずらしい思考よね)

この本にも、さまざまな分野の専門家たちと鎌田さんとの対談が載っている。
たとえば、免疫学者の谷口克、栄養学者の高橋久仁子、
がんの補完治療に詳しい福田一典、免疫学者の安保徹、
心療内科医の永田勝太郎、遺伝子学者の村上和雄など。

どれも興味深いけれど、
とくにわたしが興奮したのは遺伝子学者、村上和雄さんのはなし。

遺伝子というと、
遺伝に関わる仕事をしているのだと思われがちだけれど、
実は毎日毎分毎秒、生命維持にたずさわっている。
わたしたちの身体を構成する細胞も、
それを機能させるホルモンや酵素も、
すべてタンパク質でできている。
そしてタンパク質は遺伝子の情報をもとに一瞬一瞬生成されている。
以前に書いた記事「タンパク質の一生」をご参照あれ)

 
村上さんによれば、
ヒトの遺伝子情報(ゲノム)はほぼ3億の化学文字でできていて、
そのうち働いているのは5パーセントぐらい。
(だったかな。10パーセントだったような気もする)
そして残りの90数パーセントは何をしているんだか、
まだわかっていない。
おそらく他の遺伝子情報は無駄にそこにあるのではなくて、
ただ眠っているのだろうとのこと。

それも、ある遺伝子はつねに働いていて、
他の遺伝子はつねに眠っているわけではなく、
同じ遺伝子がオンになったりオフになったりすることが、
最近わかってきたらしい。
ガンにもガン遺伝子と、ガン抑制遺伝子があって、
抑制遺伝子がオフになればガンが増殖する。
オンになればガンの増殖が止まる。

そして遺伝子をオン・オフする要因として、
食物や環境などのほかに、
気持ちのあり方もありそうだと、
村上さんは言っている。
この辺、とても面白いので、
村上さんの本をもっと読んでみようと思っているところ。

ちなみにこの村上和雄さんは、
科学者でありながら、というより優秀な科学者であるからこそ、
サムシング・グレートの存在を感じている人だ。


b0170947_16555062.jpg

そしてこのあいだ、近所のブックオフをのぞいたら、
鎌田實さんのこんな本を見つけた。

「「がんばらない」を生きる」 中央公論新社

鎌田さんの自伝。
ちなみに鎌田さんは、拾われた子で、
その事実を37歳のときに初めて知ったそうだ。
だけどこの人、なんて豊かな生き方をしているのかと感動した。
そして読みながら何度も泣いた。
わたしのどこかの琴線にビリビリと触れたらしいんだけど、
よくわからない。
キッチンの椅子に座って、おえっ、おえっと嗚咽しながら泣いている自分が、
すごく不思議であり、滑稽であり、心地よくもあった。
おすすめです。
(ブックオフで百円也)


下に引用を少し。

------------------------------------------------

20世紀、医学や科学の急速な進歩は、結果として 「健康幻想」 をつくり出しました。
現代人は健康を必要以上に重視し、健康でなければならないと怯えている。けれど、健康は手段に過ぎず、この社会で生きがいのある生活をしたい、希望に向かって自分らしく生きたいというときに、初めて意味を持ってくる。


日本人は、「がんばる」という言葉が好きです。
「こんにちは」「さようなら」 と言う代わりに。「がんばってるかい」「がんばって」 と声をかけあう。なにをがんばるのかは語らず、でも、「がんばる」 と言い続けていれば認めてもらえる。「がんばる」ことを大前提に、暗黙の了解にして、日本人は生きてきた。戦争を引き起こしたのもがんばった結果だし、奇跡の復興を目指したのも 「がんばろう」 のかけ声の下だった。戦後は、競争をがんばり、進歩をがんばり、発展をがんばり、開発をがんばり、成長をがんばった。
ベビーブーム生まれのぼくら団塊の世代も、「がんばる」 を旗印のようにして生きてきました。生まれただけでGDPを増やし、結婚して家庭をつくり、さらにGDPを上昇させた。労働者としても消費者としてもがんばり、この国を先進国に押しあげる大きな力になってきたことは間違いない。
だけど、この国のあり方に関して、ぼくらの世代はいい役割を担ったと言えるだろうか。
それどころか、「がんばる」 ことだけを正解として、「がんばらない」 ことをバツとしてきたせいで、繁栄の見返りに、大切なものを壊してしまったんじゃないか。
自然を壊した。支えあう社会や家族のあり方を壊した。教育も壊した。そして、ついに自らの心身の健康までも。この98年は、年間自殺者が初めて3万人を突破した年でした。
20世紀後半、日本は豊かさを目指して走り続けたけれど、その間、出生率は下がり続けました。結婚や子育てに夢を持てない社会になった。四世帯に一世帯は単独世帯になり、夫婦と子どもからなる核家族世帯でさえ、もはや家族の典型ではなくなりつつあったのです。
さらにこの頃、日本の子どもたちが、海外の子どもに比べて 「幸せでない」 と感じているという調査結果を知り、ぼくは仰天します。


少年時代の僕は貧しかったけど、幸せだった。世話を焼く人も焼かれる人も、みんなもっと幸せだった。


「がんばろう」 と言っている間は、見えるのは一本の道だけだ。その道にしがみつき、落ちこぼれないように、みんなが必死になる。だけど、「がんばる」 をあえて横に置いたとき、それまで見えなかった二本目、三本目の新しい道が、ぼくらの前に開けるんじゃないか。

(引用おわり)
-------------------------------------------





※ホメオパシー入門講座やります 7月28日(日)午後




コメント欄で万年青さんから教えていただいた映画。
監督は村上和雄さんの本に刺激されてこれをつくったそうです。
渋谷UPLINKで上映中。
わたしも見たい。

by homeopa | 2013-07-22 12:09 |

trouble

b0170947_12495958.jpg


悩みというものは解決不能だから悩みなのだが、
悩むときというのはまた解決不能なこととか、
ものごとの解決不能な面をわざわざ選んで悩む傾向がある。

身体状況がある特定のバランスのときにそのようになってしまう。
胸椎2番の硬直、胸椎7番のねじれ、胸鎖乳突筋の緊張、
そしてみぞおちが硬くなり、胃とくに十二指腸の動きが鈍くなる状態。
眉間の間が緊張して縮み、たてじわの寄った表情になる。
腰椎2番と3番がくっついて硬くなり、
腹部へいくべきエネルギーが頭部に集まり、
体は腰を中心に重く感じる。

こういう体勢になるとものごとの否定的側面に、
意識がどうしても集まってしまう。
解決のつかないことを解決のつかない仕方でくり返し考える。
打ち消しても、知らないうちに同じことを考えている。
しかも人から見れば、
どうでもいいというような問題であることが多い。

誰にとっても、常に解決のつかない問題はどこかにある。
ふつうはそういうことについて、
無意識に考えないようにしているのだ。
解決がつかないということは、
今とりあえず考えうるあらゆる要素を動員してもどうにもならないということだ。

誰でも経験することだが、結局何らかの形で解決はついてしまう。
どうにかなる。良いにしろ悪いにしろ終わりがある。
悩んでいるときは、それが一生続くような気分がするものだ。
それはむしろ体のバランスによっていると見ることができる。
実際に体のバランスが良くなってくると、
同じ環境にあっても解決のつく問題に意識が向きはじめ、
元気になってくる。
そしてまた、どうにもならないように思えることは、
予測のつかないファクターがやってくることによって、
結局はかならず解決がつく。



と、こんなことをカメさんが言っていました。
というのはウソで、
これは下の本からの引用です。
「整体。共鳴から始まる―気ウォッチング」 (ちくま文庫)





Lianne La Havas | No Room For Doubt | A Take Away Show ♪








※ホメオパシー入門講座やります。6月30日(土) 10:00~12:00
by homeopa | 2013-06-25 20:26 |