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how doctors die

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病気は、かならず治療しなければいけないものなのだろうか?






下は英語のサイトの記事を翻訳したものです。
原文はこちら ↓
http://www.zocalopublicsquare.org/2011/11/30/how-doctors-die/ideas/nexus/



「医者の死に方」

何年も前、人々の尊敬を集める整形外科医であり、私の師でもあったチャーリーが、胃にしこりを発見した。チャーリーは外科医に検査を依頼し、膵臓ガンと診断された。その外科医は国内でも指折りの優秀な外科医で、膵臓ガンの5年生存率を5パーセントから15パーセントまで上げることのできる方法 (生活の質は落ちるが)まで発明していた。しかしチャーリーは興味を示さなかった。翌日には家に帰り、診療所を閉め、病院には二度と足を踏み入れなかった。家族と一緒にいてできるだけ気分よく過ごすことに集中し、数カ月後に自宅で亡くなった。抗ガン剤も放射線治療も手術も受けなかった。メディケア(高齢者に対する政府の医療保障)はほとんど使われなかった。

あまり話題には上らないが、医師も死ぬ。しかし他の人々のようには死なない。医師が特異なのは、大多数のアメリカ人にくらべていかに多くの治療を受けるかではなく、いかに受けないかだ。他の人々を死から遠ざけることに多くの時間を費やすにもかかわらず、自分が死に直面したときにはかなり淡々としている。医師は病気の進展を予想できるし、選択肢も知っている。ほとんどの医師がどんな治療でも受けたければ受けることができる。しかし彼らは穏やかな方法を選ぶ。

もちろん医師も死にたくはない。彼らも生きたい。しかし現代医学をよく知っているので、その限界も知っている。死についてもよく知っていて、人々が何をいちばん恐れるかも知っている。それは苦痛のうちに死ぬこと、そしてひとりで死ぬことだ。医師はそういうことをすでに家族と話しあっている。その時が来ても大胆な手段はとらないことや、最後の瞬間に心肺蘇生術で肋骨が折れるようなことにならないように(心肺蘇生術をきちんと行えばそうなる)、確認しておきたいからだ。

医療にたずさわる人ならだれでも「無駄な治療」が行われるのを目にしてきたはずだ。それは死に近づいている重症患者に医師が最先端医療をほどこすときだ。患者の身体は切り開かれ、管を挿入され、機械につながれ、薬で攻撃される。これはすべて集中治療室で一日数万ドルもの費用をかけて行われる。それで得られるのはテロリストにさえ味わわせたくないような悲惨な状態だ。私は仲間の医師から何度となくこんな言葉を聞かされてきた。「もし僕がこんな状態になっているのを見たら殺してくれ」 みな本気だった。なかには心肺蘇生術を避けるために、「NO CODE (特定の患者に緊急蘇生術をする必要がないことを通知する指令)」と書いたメダルを身に着けている人もいる。入れ墨を入れている人さえ見たことがある。

患者を苦しませるような医療を施すのはつらい。医師は自分の感情を表さずに情報を集めるよう教育されている。しかし親しい仲間内ではときどき本音をもらす。「自分の家族にどうしてあんなことができるんだ?」と彼らはきく。おそらく医師のアルコール依存症や鬱病の罹患率が他の職業より高いのは、それも一因しているのではないかと思う。私が10年前から病院の医療に加わるのをやめたのはそのせいだ。

どうしてこんなことになったのだろう? 医師が自分が望まないような治療をこれほどたくさん施すようになるなんて。単純な答えは、いや、さほど単純ではない答えはこうだ--- 患者・医師・システム。

ここで患者がどのような役割を担うかを知るには、だれかが意識を失って救急病棟に運ばれたところを想像するといい。よくあることだが、だれもそんな状況を予測してはいない。ショックを受けておびえている家族は選択肢の迷路に迷いこむことになる。彼らは圧倒されている。そこで医師が「できることをすべてやってほしいですか」ときくと、家族は「はい」と答える。そこから悪夢が始まる。家族が本当に「できることをすべて」やってほしいと思っていることもあるが、実際は「妥当なことをすべて」やってほしいと思っていることも多い。問題は、何が妥当かを彼らが知らないことだ。しかも混乱して悲しんでいるので、医師にそれを質問したり医師の言葉をちゃんと聞きとることができない。一方で、すべてをやってくれと言われた医師は、妥当であってもなくても、それを実行する。

上のような筋書きはよくあることだ。それに輪をかけるのが、医師の能力に対する非現実的な期待だ。多くの人は心肺蘇生術を確実な救護法と考えているが、実際には結果はさほどかんばしくない。私は救急病棟に心肺蘇生機を導入してから何百人という救急患者を診てきた。そのうち歩いて病院から出ていったのはひとりだけだ。彼は心臓に問題のない健康な男性だった(詳しく言うと、彼は緊張性の肺気胸だった)。もし患者が重病をわずらっていたり、老齢だったり、末期的な状態だったりすれば、心肺蘇生術の成果はごくわずかなものになり、患者の苦しみは膨大になる。知識の不足と誤った期待は、多くの間違った決断に通じる。

しかしもちろん、そういう状況を作るのは患者だけではない。医師も一役買う。問題は、無駄な治療を行いたくない医師でさえも、患者とその家族の願いに応じる手段を見つけなければならないことだ。もう一度救急病棟を想像してみよう。そこには悲嘆に暮れ、おそらくヒステリックになっている家族がいる。彼らはその医師を知らない。そのような状況で信頼関係を築くのは難しい。もしそこで医師がこれ以上治療をしないようにと助言でもすれば、家族は医師が下劣な動機から、つまり時間や費用や労力を惜しんで、そんなことを言うのだと思いがちだ。

医師のなかにはコミュニケーションが得意な人もいれば、そうでない人もいる。意志の固い人もいれば、さほどではない人もいる。しかしどの医師もみな似たようなプレッシャーに直面する。私は最期の選択をしなければならないような状況に直面したとき、できるだけ早い段階で、自分が妥当だと思う選択肢のみを提示するという方法をとる(どんな状況でもだが)。患者やその家族が妥当ではない選択肢を持ちだしてきたときには、専門用語は使わず、その難点を明確に説明できるような普通の言葉で話しあう。もし患者やその家族が、私が無意味または有害だと思う治療をそれでもやりたいと言いはるときには、別の医師または病院に治療を任せるだろう。

ときにはもっと強引になるべきだったのだろうか? このように患者を別の医師に任せたケースで、いまだに気になっているものがいくつかある。私がとても好意を抱いていた患者のひとりは、ある有名な政治家一族の弁護士だった。彼女は重度の糖尿病で、血液循環が非常に悪く、あるとき足に痛いただれができた。病院の厄介さを知っていたので、私はあらゆる手を尽くして手術を避けさせようとした。それでも彼女は、私とは無関係の外部の専門家に助けを求めた。私ほど彼女のことをよく知らなかった医師たちは、慢性的に詰まっている両脚の血管にバイパス手術を施すことにした。しかしそれでも血液循環は回復せず、手術の傷はなかなか治らなかった。やがて両足が壊疽を起こし、脚を切断することになった。二週間後、こうしたことすべてが行われた有名な医療センターで、彼女は亡くなった。

このようなケースで医師や患者の間違いを指摘するのは簡単だが、多くの点で、医師も患者も、過剰な治療を奨励する大きなシステムの犠牲者なのだ。不運なケースでは、医師たちがフィー・フォー・サービス(診療ごとに料金を支払う仕組み)を利用してできることをすべて行い、それがどんなに無意味でも構わず、収入を上げようとする。しかしもっとよくあるのは、医師が訴訟を恐れて頼まれたことをすべて行うというケースだ。彼らはトラブルを避けるために、ほとんど意見も言わない。

患者がきちんと準備をしていた場合でさえ、このシステムに飲みこまれることもある。私の患者に78歳のジャックという男性がいた。彼は長患いで、大手術を15回も受けていた。そしてどんな状況であれ、二度と生命維持装置にはつながれたくないと私に説明していた。ところがある土曜日、ジャックは激しい発作を起こし、妻の付き添いもなく、無意識のまま緊急治療室に運ばれた。医師たちはジャックを蘇生させるためにあらゆる手を尽くし、ICUで生命維持装置につないだ。これはジャックにとっては最悪の悪夢だった。私は病院に着いてジャックのケアを引き継ぐなり、彼の妻や病院のスタッフと話し、本人の希望が書かれたノートを見せた。それから生命維持装置を切り、彼の横に付き添った。ジャックは二時間後に亡くなった。

ジャックは自分の希望をすべて書面にしていても、望んだとおりに死ぬことができなかった。システムがそれを妨害した。あとでわかったことだが、私がジャックの生命維持装置を切ったことについて、看護士のひとりが殺人の可能性ありとして当局に報告したそうだ。もちろんそれで何かが起こることはなかった。ジャックは自分の希望を明確に説明していたし、それを証明する書類も残していたからだ。しかしどんな医師も警察に捜査されると思えば怖じ気づく。ジャックの望みに反して彼を生命維持装置につないだままにし、彼の命と苦しみを数週間先まで延ばしたほうが、私にとってははるかに簡単だっただろう。しかもメディケアではさらに50万ドルの費用がかかる。多くの医師が誤った過剰治療を行いたがるのも無理はない。

それでも医師は自分自身に過剰な治療はしない。その結果をつねに目にしているからだ。自分の家ではほぼだれでも穏やかに死ぬことができるし、最近では痛みもずいぶんコントロールできるようになった。ホスピスでは終末期の患者に無益な治療を施すかわりに、快適さと威厳を与えることに集中し、はるかに良好な最期の日々を提供する。驚いたことに、多くの研究から、ホスピスにいる人々のほうが同じ病気で積極的な治療を受けている人々より長生きすることがわかっている。つい最近も、有名記者のトム・ウィッカーが「自宅で家族に囲まれ穏やかに亡くなった」と、ラジオで言っているのを耳にした。ありがたいかな、そのようなケースはますます増えている。

数年前に従兄のトーチがけいれん発作を起こし、肺ガンが脳に転移していることがわかった。私はトーチにさまざまな専門家を紹介した。それでわかったのは、週に3~5回の抗ガン剤治療を含む攻撃的な治療を受ければ4カ月は生きのびられるだろうということだった。最終的に、トーチはどの治療も受けず、ただ脳の腫れを緩和する錠剤を飲むだけにとどめ、私の家に引っ越してきた。

それから8カ月間、私たちはトーチが楽しめることをいろいろやった。何十年ぶりで一緒に楽しく過ごした。トーチにとって初体験のディズニーランドにも行ったし、家でごろごろ過ごしたりもした。トーチはスポーツ好きなので、スポーツを観ながら私のつくった料理を食べるのをとても喜んだ。病院食の代わりに好きな食べ物を食べて少し太りさえした。激しい痛みはなく、つねに上機嫌だった。そしてある日、目を覚まさなかった。それから三日間、昏睡状態のように眠り、そして亡くなった。8カ月間の医療費は一種類の薬代だけで、約20ドルだった。

トーチは医者ではなかったが、自分が量だけでなく質のよい人生を求めていることを知っていた。ほとんどの人間が求めるのはそれではないのか? もし終末期ケアに最先端技術があるとすれば、これだ --- 尊厳死。僕自身は主治医に自分の選択肢を知らせてある。ほとんどの医師がそうであるように、私もそれを選ぶのは簡単だった。果敢なことは何もせず、穏やかに眠りにつく。師のチャーリーのように。従兄のトーチのように。そして仲間の医師たちのように。
                                      ケン・マレー(南カリフォルニア大学、家庭医学部臨床助教授)


(翻訳ここまで)



         ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※  ※



上の医師たちの選択は、
現代医学の限界というものを前提にしています。

もちろん、現代医学に限界があるならば、他の方法を使うという選択肢もあります。

また現代医学であれなんであれ 「治療」 というものをしないという選択もあります。

大事なのは、本人が自分で選択できる状況やシステムと、
それを受け入れる寛容で柔軟な社会があることだと思います。






しかし現実には、個人が自分の治療法を選択する自由はあまりありません。
下はそれを痛感させられる映画。
ブルジンスキー博士とアンチネオプラストンについて。


病気にはさまざまなアプローチが可能であり、
現代医学も単にそのひとつであること、
現代医学が他のアプローチに対していかに閉鎖的かということ、
新しいアプローチを開発する人々がいかに迫害されるかということ、
従来の治療法から利権を得ている人たちが、
いかに卑劣な手段を使ってそれにしがみつこうとするかということ、
そんな現実が如実に描かれています。
観ているとけっこうムカつきます。

でも中身の充実したすばらしい映画。




※日本ホメオパシーセンター世田谷喜多見よりお知らせ

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by homeopa | 2015-05-29 22:59 | 病気