pimboke6

in the woods

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このあいだ友だちに、わたしは偏屈者だと言われて苦笑した。
そしたらすぐに、同じくらい偏屈な人を見つけた。
ヘンリー・デイヴィッド・ソロー。
19世紀の文人で、
たぶんそれなりに地位もお金もあったのだろうけど、
酔狂にも人里離れた森の中に自分で家を建ててひとりで住んだ。
その2年間の生活についてつづった『森の生活』(岩波文庫)は、
偏屈のかたまりみたいな本だ。
でもレビューで知ったけど、この人、鉛筆工場の社長さんだったらしい。
衣食に困らない人だからできる道楽ともとれるけど、
そうだなあと思うところも多々ある。

人間が自分の家を建てる場合は、鳥が巣をつくる場合とおなじように、ちゃんと目的にかなっていなくてはならないのだ。人間が自分の手でみずからの住まいを建て、単純で正直な労働によって家族を養っていくようになれば、どの鳥もそうした暮らしのなかでさえずっているのだから、ひょっとすると詩的な才能が万人のうちに芽生えてくるのではあるまいか? ところが悲しいことに、われわれのやり方は、ほかの鳥がつくった巣のなかに卵を生み落とし、騒々しく耳ざわりな声で鳴いて、旅ゆく者にはなんの慰めも与えてくれないムクドリモドキやカッコウに似ている! われわれは、家を建てる楽しみを、いつまでも大工にゆずり渡したままでよいものだろうか? 
・・・・この分業というやつは、いったいどこまでいけば終わるのだろうか? それは結局、なんの役に立つことになるのか? もちろん、ほかのひとも私のかわりにものを考えてくれるかもしれないが、だからといって、私が自分でものを考えるのをやめたほうがいいということにはならないだろう。

私の住まいを吹き渡る風は、山々の尾根を渡る風に似て、地上の旋律をとぎれとぎれに運ぶか、あるいはそのなかでも天上的な部分だけを運んできた。朝の風は永遠に吹きつづけ、創造の詩はとだえることがない。ただ、それを聞き分ける耳をもつひとがめったにいないだけだ。

この粗末な装いのあばら家は、いわば私のまわりにできた結晶体であり、それを建てた本人に感化を及ぼした。それはどことなく、輪郭だけを描いた絵を思わせた。私は外気を吸いに戸外に出る必要はなかった。室内の体気は少しも新鮮さを失っていなかったからである。ひどい雨降りの日でも、屋内にいるというよりは、ドアのうしろに座っているようなものだった。『ハリヴァンサ』に、「鳥のいない家は味つけしていない肉のようなもの」とあるが、これは私の住処にはあてはまらなかった。私はたちまち鳥たちの隣人になってしまったからだ。鳥を閉じこめるのではなく、自分のほうが籠に入って彼らのそばにいたわけだ。

われわれの人生は瑣末な問題にかまけて浪費されている。正直な人間なら十本の指よりもたくさんのものを数える必要はめったにないし、あってもせいぜい十本の足指を加え、あとはひとまとめにしておけばよい。なにごとも簡素に、簡素に、簡素にと心がけるべきだ。自分の問題は百とか千ではなく、二つか三つにしぼっておこう。百万数えるかわりに六まで数え、勘定は親指の爪に書きつけておく。文明生活という、この風向きの定まらない海のまっただなかでは、雲や嵐や流砂など、無数の条件を考慮しなくてはならないので、浸水で船が沈没し、目的地に着けなくなる事態を避けたければ、推測航法で生きていくほかはないのであるが、そうなるとよほど計算が得意でなければ成功などおぼつかない。簡素に、簡素に、簡素に、と心得たまえ。

なぜわれわれはこうもせわしなく、人生をむだにしながら生きていなくてはならないのであろうか? 腹も減らないうちから餓死する覚悟をきめている。今日のひと針は明日の九針を省く、などと言いながら、明日の九針を省くために、今日は千針も縫っている。仕事といったところで、われわれは重要な仕事など、なにひとつしてはいないのである。

こんな生活は、わが町の同胞諸君にとっては、疑いもなく怠惰のきわみであった。けれども、もし鳥や花たちが彼らの基準で判断してくれたなら、私は失格とはならなかっただろう。人間は自分の内部に生活の根拠をもたなくてはならないといわれるが、そのとおりである。自然の一日はとてもおだやかにすぎてゆくものだから、人間の怠惰をとがめ立てたりはしないであろう。
楽しみを外の世界に求めて、社交界や劇場におもむくひとびとに比べると、私の暮らし方には少なくともひとつの強みがあった。つまり、自分の暮らしそのものが楽しみであり、いつも新鮮さを失わなかったことだ。それは次々と場面が変わる、終わりのないドラマのようなものだった。

実在が架空のものとされる一方で、虚偽と妄想が確固たる真理としてもてはやされている。もし人間が実在の世界だけをしっかりと観察し、迷妄におちいらないようにすれば、人生は――われわれの知っているものにたとえると――おとぎ話やアラビアンナイトのようになるだろう。必然的なもの、存在する権利のあるものだけを尊重するなら、詩と音楽が通りに鳴りひびくだろう。いそがず賢明に生きてゆけば、偉大な、価値あるものだけが永遠の絶対的存在であり、卑小な不安や快楽は、実在の影にすぎないことをわれわれは知るだろう。実在するものはつねに心楽しく、崇高である。
・・・・・遊ぶことが生きることにほかならない子供たちは、人生の真の法則や、それとの関わり方を大人よりもよく知っている。ところが大人のほうは、生きるに値する人生を送ることができないくせに、経験――つまり失敗――によって子供たちよりも賢くなったと思いこんでいるのである。

私が森へ行ったのは、思慮深く生き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きていなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである。



ま、ここまでご大層でなくても、
わたしも美麻の家で暮らすようになったら、
生きることを今よりもっとナマで感じられるのではないかと期待している。

たとえば今の生活が、音楽をCDで聴くようなものだとしたら、
美麻での生活は、森の中でライブコンサートを聴くようなものではないかと。

ナマ人生。



でも雪も寒さもカメムシもライブだからね。
きびしいなあ~と思っていたら、
こんなものを見つけた。
スエーデン製雪下ろしツール




畑も早くライブでやりたい!








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ソフトウェアの不具合で、日本ホメオパシーセンター世田谷喜多見のサイトを更新できないので、
しばらくのあいだお知らせはこのブログに載せます。


『基本レメディーの使い方講座』

 日々のセルフケアで活躍する36種類のベーシックレメディーを、
 2回にわけて勉強します。
 この講座、久しぶりにやるので、大丈夫かなあという感じはありますが、
 まあ、もたもたしながら、楽しくやりましょう。

 日時: 1回目 2015年1月25日(日)午後1~5時 
      2回目 2015年2月15日(日)午後1~5時
 場所: 喜多見地区会館  地図はこちら
        小田急線、喜多見駅の改札を南側に出て左に進み、
        線路を左側に見ながら線路ぞいに進むと、前に「ちよだ鮨」が見えます。
        その横の道(線路ぞい)を150メートルほど進むと、
        右手に喜多見地区会館があります。
        第二会議室は1階の奥です。
        スリッパに履きかえてお入りください。
        「ホメオパクラブ」の名前で部屋をとってあります。
 料金: 1回2000円
 講師: 上村悦子




『ホメオパシー入門講座』

 ホメオパシーは使ったことがないけれど興味がある、という人や、
 使いはじめたばかりでどういうものかよくわからない、という人向けの講座です。
 お気楽にどうぞ。

 日時:2015年2月8日(日)AM10:00~12:00
 場所:上とおなじ
 料金:1000円
 講師:上村悦子


★どちらの講座も、ご予約が必要です。
  ご予約はこちらのメールアドレスに → mail@homeopa.info

★どちらの講座も、あったかいお茶とお菓子付きです。
  お菓子は、わたしの多忙度や怠惰度や気分によって、手作りかもしれないし、市販品かもしれません。
  あまり期待しないで、少し期待してください。
by homeopa | 2015-02-05 16:47 | 自然のちから