pimboke6

解釈改憲

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クレソンて、こんな花が咲くのね。





それはともかく、
憲法9条の解釈を変えて、
日本が集団的自衛権を行使できるようにしよう (=アメリカと一緒に戦争できるようにしよう)、
という自民党のもくろみに、
ほんの少しブレーキがかかったらしい。
でも7月4日まで。

集団的自衛権:公明の意見集約が難航(6月26日、毎日)
http://mainichi.jp/select/news/20140626k0000m010136000c.html


公明 新試案に慎重意見相次ぐ(6月25日、NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140625/k10015502071000.html



ガガに将来いい伴侶が見つかるとして、
その人が兵隊として外国に送られて人を殺したり、殺されたり、
ガガに子供ができるとして、
その子どもが兵隊として人を殺したり、殺されたりするとことを想像すると、
これは絶対いやだ。

いや、そんな先のはなしではなく、
もしこれが閣議決定されて国会で通れば、
わたしが生きているあいだにも、日本は戦争をはじめるかもしれない。
そんな国にはしたくない。

そんなことを言ってどうやって国を守るんだ、という人もいるだろうけど、
戦後60年間、日本は戦争をせずに国土と国民を守ってきた。
それはアメリカの傘があったからだ、という人もいるだろうけど、
そのアメリカは日本を戦争に参加させようとちょくちょく圧力をかけてきた。
それでも日本が戦争に加担しなかったのは、
憲法9条があったからだ。

そもそも、解釈を変えるだけで憲法の意味を変えられるなんて、
ゲームに負けそうになってルールを変えるガキ大将みたいな発想じゃないか。
そんなの奨学生だっておかしいと思うだろう。



せめてこれにでも投票しておこうかな。
「通販生活の国民投票」





(以下 引用)

 集団的自衛権というのは平たく言えば「よその喧嘩を買って出る」権利のことです。

 集団的自衛権の行使例には次のようなものがあります。

 ハンガリー動乱(56年・ソ連)、ヨルダン派兵(58年・イギリス)、ベトナム戦争(65年・アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなど)、チェコスロバキア「プラハの春」(68年・ソ連)、アフガニスタン軍事介入(79年・ソ連)、ニカラグア軍事介入(81年・アメリカ)、チャド派兵(83年・フランス)。

 ご覧になればわかるとおり、集団的自衛権の発動はほとんどの場合外部からの武力攻撃が発生していない状態で行われています。従属国内で「傀儡政権」が倒れそうになると、「ボス」が出てきて、反政府勢力を潰す。その強権発動の法的根拠が集団的自衛権です。ハンガリー動乱やプラハの春では、主権国内部で親ソ政権を民衆が倒しかけたときに、民衆を武力制圧するためにソ連軍の戦車が市民たちをひき殺しにやってきました。歴史が教えるのはそんな血なまぐさい事例ばかりです。

 つまり集団的自衛権とは、「自分のシマうちでの反抗的な動きを潰す」権利なのです。ですから、どうして日本がこのような権利を行使すべきだと考える人がいるのか、私にはその理由がよく理解できません。だって、日本には守るべき「シマ」がないからです。

 ですから、日本がアメリカに対して集団的自衛権を発動する「筋目」を通そうとするなら、ありうる場合は二つしか思いつきません。

 ひとつは、アメリカの民衆が「日本の強権的支配からアメリカを解放せよ」と言って、「日本の傀儡政権」であるホワイトハウスにおしかけたときに、それを潰す場合(SF的には面白そうな想定ですが、蓋然性は低い)。

 もうひとつはロシアや中国や北朝鮮がアメリカに武力侵攻してきたとき助っ人に駆けつける場合です。

 ただしこの場合はその前に日米安保条約を改定して、条文を「日本およびアメリカはいずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動すること」という双務的な条約に書き換える必要があります (今、日本はアメリカ領土内における攻撃には対処する権利も義務もありません。安保条約は日本を守るだけの条約です)

 とりあえず理論的に考えると、日本が集団的自衛権を行使したければ、

(1)アメリカを支配下に置くか
(2)日米安保条約を双務的な条約に改定する(そしてアメリカを守るために、アメリカ国内に在米自衛隊駐留基地を展開する)ことがことの順序として先に来るだろうと僕は思います。
                                                        ---- 内田樹







「丸山真男君が『現代政治の思想と行動』の中に紹介しているあるエピソードである。私の勝手なことばでいいなおしてみると、
あるアメリカ人が、第二次大戦後のドイツへ行って、いろんなドイツ人に、あなたはあのひどいナチス政治の下で、どうして平気で暮らしていられたのですかと聞いて歩いたのへ、例えば一人の言語学者 (だからインテリだ) はおおよそこういったというのである。
つまり、あの当時、「ナチ 『革命』 の全過程の意味を洞察」できるような 「高度の政治的自覚」 を持つことは、日常の生活に忙しく追われている一般市民には、とても望みがたいことであった。
ナチスが政権を取った年のある日、ドイツ人の経営する商店の店先に 「ドイツ人の商店」 という札がさりげなく張られたとき、一般人は何も感じなかった。
またしばらくしたある日、ユダヤ人の店先に黄色い星のマーク(ユダヤ人であることを示す)がさりげなく張られた時も、それはそれだけのことで、それがまさか何年も先の、あのユダヤ人ガス虐殺につながるなどと考えた普通人は一人もいなかったろう。
つまり 「ナチ 『革命』 」 の全過程の意味を洞察」できる普通人はいなかったのだ。
きのうに変わらぬきょうがあり、きょうに変わらぬあしたがあり、家々があり、店があり、仕事があり、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も・・・別にドイツ一般民衆の思想や性格がナチスになったワケでは全くないのだが、気のつかない世界 (ドイツ社会) の変化に彼らは 「いわば止めどなく順応したのである」。そしてナチスが政権を獲得した1933年から7年がたって、あのアウシュビッツが始まったというわけだ」
                                                ---- 『小さな兆候こそ』木下順二




人殺し命じられる身 考えて 

 積極的平和主義であれ、集団的自衛権の解釈によってであれ、海外での武器使用を認めることになれば敵とされた人を殺す任務を果たす兵士が必要となります。旧日本軍兵士であり、政治学を研究してきた一人として、安倍晋首相には、こうした人のことを考えて政策決定してほしいと思います。
 私は、米英帝国主義からアジアを解放する正義の戦争だと思っていた軍国青年でした。しかし学徒出陣を命じられた時、どうしても人を殺す自信が持てませんでした。せめて見えないところで人が死ぬ方がいいと、海軍を志願しました。身体が弱く認められず、陸軍の要塞重砲兵を命じられました。目の前で人を殺さずに済むと安心しましたが、軍隊はそんな生やさしいものではありませんでした。
 命令されれば、いつでも人を殺す訓練をするのが軍隊でした。捕虜になった米兵を殺せという命令が出た時でも、従わないと死刑になる問題に直面しました。
 戦争で人を殺した兵士は、ベトナムやイラクで戦った米兵を例にとっても心の問題で悩んでいる人が少なくありません。殺人を命じられる人の身になり、もう一度、憲法9条の意味を考えて下さい。
                                ---- 大学名誉教授 石田雄 91歳(2014年6月11日 朝日新聞 声欄)






へいわってすてきだね





久しぶりにデモ、行こうかな。

by homeopa | 2014-06-27 08:26 | 世の中のこと