pimboke6

engawa

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子どもはほめて育てるべきだ、
と言う人がいる。
そうかなー、とつねづね思ってきた。

子どもは素直だから、ほめられると、もっとほめられようとする。
ほめられるようなことをすれば愛されるんだと直感的に思うのだろう。
それを続けているうちに、
自分の本当の気持ちを置きざりにしてしまうことも多いんじゃないか。

だからガガがちょっといい成績をとってきたときも、
「ほう、すごいじゃん・・・」 とクールなトーンで応じる。
もちろんガガは、「すごいと思ってないでしょ。すごいと思わないの?」 とご不満だ。
わたしがここで示したいのは、
いい成績をとってもとらなくても、どっちでもいい、
それであんたを思う気持ちが変わることはないよ、ということなのだ。

でも、そういうふうに伝わっているのかどうか。
もしかしたら、そんな成績ではまだカアは満足できないぞ、
と思っていると思われているかもしれない。

頭がいい、やさしい、できる、礼儀正しい、立派、いい子、かっこいい、かわいい、美人、などなど、
こういうほめ言葉はだいたい一面的だ。
実際は、頭がいい子はずるかったり、
やさしい子は気が弱かったり、
できる子は傲慢だったり、
礼儀正しい子は堅苦しかったりすることもよくある。
だからこういう一面をほめすぎると、
それと表裏一体の部分をないがしろにしてしまう恐れがある。
どっちもあってその子なのに。

以前からそんなことを考えていたら、
先日こんな文章を読んで、少し勇気づけられた。


「例えば、親が子供を見る場合、この子はこういういいところがあるとか、悪いところがあるとみていくとしますね。いいところがあるというのを強くみたとしても、悪いところがあるというのを強くみたとしても、両方とも子供には負担なんですね。面白いとみた場合には、子供の方はそんなに負担じゃないんだと思うんです。親も楽です。こういういいところがあるといえば、そのように子供はならなければいけないし、親もそういうふうにしようと思ってしまうし、ある種の期待をかけてこういう人間になってもらいたいという価値観が生まれる。だけど、面白い子だというふうに思った場合は、お互いに楽で、そういう意味では健康なんだと思います。生き方も、自分も相手もこういういい生き方とがいうんじゃなくて、共鳴を軸にして面白い生き方ができればいいというふうに考えれば、今みたいな世の中だったら、とくに楽だと思うんです」
(共鳴については、ぜひ本を読んでください)
                                 ---- 片山洋次郎著 「整体から見る気と身体」 (ちくま文庫)

たしかに、「面白い」 という言葉には、
味噌もクソもひっくるめてすべてオーケーみたいな、いいかげんで寛大で楽しい響きがある。
縁側のような温かさがある。

そういえばクライアントさんが言っていた。
自分がいちばん自信を持ってゆったり過ごせたのは、
自分を面白がってくれる友達がそばにいた時期だったと。

ガガが使ったものを絶対にもとの場所に戻さないことも、
面白いと見ればたしかに面白いし、
外では礼儀正しいくせに、家では私を罵倒するのも、
面白いと見れば面白いし、
わたしがちょっとキスしようとすると、強姦でもされそうに身をすくめるのも、
面白いといえば面白い・・・・
今度いい成績をとってきたら、「ほう、面白いじゃん・・・」 と言ってみようかな。


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上と関連して、同じ著者の面白い文章があったので、
ついでにここに書きとめておこう。

この文では、人が集中したときの状態について書いてあって、
集中の仕方にもいろいろあるらしい。
やらねばならない、と思って集中するときは、頭頂部と骨盤の底部がちぢまり、
心からやりたいことに集中しているときは、後頭部の下部と骨盤の上部がちぢむ。


「ほめて育てる」 というのもよいとはいえない。ほめられて育った子どもが、自分の中から湧き起こるような自信を持つかといったら、多くの場合そうではありません。
  親の価値観や期待に沿ってほめるからです。ほめられることで、それに応えなきゃいけないと思って、必死に 「良い子」 に育つ。がんばればがんばるほど不安になって、心身のバランスが崩れていく子はけっこう多い。
  外側からいくらおだてられても、骨盤の上のほうが縮む集中力にはなりません。
  もちろん、ほめることは、ある部分で才能を伸ばしたり集中力をつけたりするきっかけになることもありますが、人の評価を意識してがんばるようなサイクルができ上がってしまうのは、身体的にみれば大変不健全です。自分の内側から湧いてくる気持ちが見えにくくなってしまいます。
  骨盤底部が過剰な緊張を繰り返すサイクルの中で生きている子は、思春期になったときに、人間関係の距離のとり方が難しくなります。すごく近づき過ぎたり、逆に拒絶してしまったりして、人との距離感覚がつかめない傾向があります。
  子供に本当の集中力を身につけさせることができるのは、思いっきり自分がやりたいことをやりたいようにやったという身体の経験だけです。これを体験してはじめて、ではそういう集中状態になれないとき身体をどう調整できるかという技術が生きてくる。それなくして骨盤をいくらいじっても、意味がありません。
  「本当に面白くてやっていること」 と、「やらなくてはいけないからやっていること」 とで、身体感覚がどう違ってくるのか本人が自覚できること――これがもっとも大切です。
  本当の集中というものが、ただ頭が興奮しているような状態ではなく、自分が心から好きなことに向かったときの静かな手応えのあるものだということを知るには、実際にその感覚を自分の身体で味わってみるしかない。
  ですから、子どもの教育においては、この子は本当に自分から楽しくてやっているかどうかを、見ていてあげることが一番大切なのです。
  よしよしと子どもの頭のてっぺんにさわって、本当に面白くてやっているか、そうでないのかを確認してあげるとよい。
  これは親や先生の側からしたら忍耐のいることかもしれませんが、身体の持つ根源的な喜びに気づかせてあげるような教育こそ、子に対する何よりの贈り物だと、私は思います」
                                              ---- 片山洋次郎著 「骨盤にきく 」



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by homeopa | 2012-12-25 08:20 | 人間