pimboke6

daikon

大根が、カミサマに見える。
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(以下、引用)

  一つの結果には必ず一つの原因があるという命題が正しくないことは、少しでも現実を観察すれば、
だれにでもわかる。ふちのぎりぎりまで水で満たされたコップに最後の一滴が加わって水があふれ出た
場合に、この 「最後の一滴」 をオーバーフローの 「原因」 であると考える人はあまり賢くない。私が今
不機嫌であるのは空腹のせいなのか、昨日の会議のせいなのか、原稿の締め切りが迫っているせい
なのか、確定申告の税額のせいなのか、どれか一つを 「原因」 に特定しろと言われても私にはできない
(してもいいが、仮にそれを除去しても私の不機嫌はさして軽減しない)。

  (中略)

  私たちはあらゆる局面でその事象を単一に管理している 「オーサー」 の存在を信じたがる傾向を
持っている。これはほとんど類的宿命ともいうべき生得的な傾向であって、「やめろ」 と言われて、
ただちに 「はいそうですか」 と棄てられるものではない。なぜなら、「悪の張本人」 を信じる心性は
「造物主」 や 「創造神」 を求めずにはいられない心性と同質のものだからである。ある破壊的な
事件が起きたときに、どこかに 「悪の張本人」 がいてすべてをコントロールしているのだと信じる人
たちと、それを神が人間に下した懲罰ではないかと受け止める人たちは本質的には同類である。
彼らは、事象は完全にランダムに生起するのではなく、そこにはつねにある種の超越的な (常人には
見ることのできない) 理法が伏流していると信じたがっているからである (そして私たちの過半はその
タイプの人間である)。だから、陰謀史観論は信仰を持つ者の落とし穴となる。神を信じることのできる
人間だけが悪魔の存在を信じることができる。

 (中略)

  陰謀史観を根絶することが困難であるのは、そのせいである。「超越的に邪悪なるものが世界を
支配しようとしている」 という信憑は、全知全能の超越者を渇望する人間の 「善性」 のうちに素材
としてすでに含まれているのである。

                           ---- 「私家版・ユダヤ文化論」 内田樹著 (文春新書)
by homeopa | 2012-02-21 09:23 | 風景